The Project Gutenberg EBook of Kesshouki, by Andreev Leonid Nikolaevich

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Title: Kesshouki

Author: Andreev Leonid Nikolaevich

Translator: Shimei Futabatei

Release Date: October 1, 2010 [EBook #34013]

Language: Japanese

Character set encoding: UTF-8

*** START OF THIS PROJECT GUTENBERG EBOOK KESSHOUKI ***




Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka





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アンドレーエフ作

二葉亭譯

血笑記


[Pg 1]

血笑記

二葉亭譯

(前編、斷篇第一)

 …物狂ものぐるほしさと怕おそろしさとだ。

 始はじめて之これを感かんじたのは某街道なにがしかいどうを引上ひきあげる時ときであつた。 もう十時間じかんも歩あるき續つゞけて、休憇きうけいもせず、歩調ほてうも緩ゆるめず、倒たふれる者ものは棄すてゝ行ゆく。 敵てきは密集團みつしふだんとなつて追擊つゐげきして來くるのだ。 今いま附つけた足跡あしあとも三四時間じかんの後のちには敵てきの足跡あしあとに踏消ふみけされて了しまはう。 暑あつかつ[Pg 2]た。 何度なんどであつたか、四十度ど、五十度ど、或あるひは其以上それいじやうであつたかも知しれんが、唯ただもう不斷のべつに蕩々だら〳〵と底そこも知しれぬ暑あつさで、いつ涼すゞしくなる目的あてもない。 太陽たいやうは大おほきく、火ひの燃もゆるやうに、怕おそろしげで、或あるひは大地だいちに近寄ちかよつて、用捨ようしやのない火氣くわきに引包ひツつゝみ、燒盡やきつくさむとするのかと危あやぶまれた。 眼めを開あいてゐられゝばこそ。 小さく、窄すぼんだ、罌粟けし粒程つぶほどの瞳孔ひとみが閉とぢた眼瞼まぶたの下したに蔭かげを求もとめても、蔭かげはなく、日ひは薄皮うすかはを透とほして、血紅色けつこうしよくの光線くわうせんを疲つかれ切きつた腦中なうちうへ送おくる。 けれども、流石さすがに目め[Pg 3]を閉とぢてゐれば樂らくなので、私わたしは長ながい間あひだ、事ことに寄よると何時間なんじかんといふ間あひだ、目めを閉とぢて、前後左右ぜんごさいうを引上ひきあげて行ゆく物音ものおとを聽ききながら行いつた。 人馬じんばの重おもたげな揃そろはぬ足音あしおと、鐵てつの車輪しやりんの小石こいしを引割ひきわる音おと、誰たれやらの苦くるし氣げな精せいの盡つきた溜息ためいき、燥はしやいだ唇くちびるを鳴ならす乾かわいた音おとなどが聞きこえる。 皆みな默だまつてゐる。 啞者おしの軍ぐんの行ゆくやうだ。 皆みな倒たふれゝば默だまつて倒たふれる。 それに躓つまづいて倒たふれる者ものも、默だまつて起上おきあがつて、顧視みむきもせずに行ゆく。 宛まるで啞者おしである上うへに目めも耳みゝも聾しひてるやうだ。 私わたしも幾度いくたびか躓つまづいて倒たふれたが、其時そのときは我われにもなく目めを開あく――と、目めに見みえる物ものは、人間離にんげんばなれした虛うそらしい、此世このよが狂くるつて苦くるし氣げに譫語うはごとをいふやうな光景ありさまだ。 炎もゆるや[Pg 4]うな空氣くうきが搖ゆれ、蕩とろけさうな石いしも默だまつて搖ゆるぎ、遙はるか向むかふの曲角まがりかどを曲まがる人ひとの群むれも、大砲たいはうも、馬うまも、大地だいちを離はなれて、音おともなく、ジェリーのやうに震ふるひながら行ゆく所ところは、生いきた物ものとは見みえないで、體からだは烟けむの幽靈いうれいのやうである。 大おほきな怕おそろしげな、ツイ鼻はなの先さきに見みえる太陽たいやうが、銃身じうしんに金具かなぐに光ひかりを宿やどして、小ちひさな、無數むすうの太陽たいやうを映出うつしだし、その眩まばゆい光ひかりが横合よこあひからも、足元あしもとからも、眼めに射込さしこみ、白しろい㷔ほのほを噴はいてピカ〳〵と鋭するどいこと、宛然さながら白熱はくねつした銃劒じうけんの切先きツさきを見みるやうだ。 燒立やきたて〳〵物ものを枯からさむとする暑熱しよねつは、身みに沁しみ、骨ほねに透とほり、髓ずゐに徹てつして、時ときと[Pg 5]しては胴どうの上うへにぶらつくものは首くびではなくて、何なんとも得體えたいの知しれぬ、重おもこいやうな、輕かるいやうな、圓まるい不思議ふしぎな物ものであつて、どうやら自分じぶんの物ものではないやうに思おもはれ、薄氣味惡うすきみわるくなることもある。

 と、其時そのとき、偶然ひよつと我家わがやが眼めの前まへに浮うかぶ。 部屋へやの隅すみで、水色みづいろの壁紙かべがみの片端かたはしが見みえて、卓テーブルの上うへには、水みづの入はいつた壜フラスクが其儘そのまゝ手付てつかずに埃塗ほこりまぶれになつてゐる。 これは私わたしの卓テーブルで、跛びツこなので、短みじかい方はうの脚あしの下したには紙かみを丸まるめて敷かつてある。 隣室りんしつには、見みえぬけれど妻さいも忰せがれも居ゐるらしい。 若もし聲こゑが出だせたら、大聲おほごゑ出だして喚わめいたかも知しれぬ――水色みづいろの壁紙かべがみの片端かたはしに、[Pg 6]埃塗ほこりまぶれの手附てつかずの壜フラスクと、見みる所ところは尋常じんじやうの、際立きはだつた物ものではないけれど、それに其程それほど目めを駭おどろかされたのである。

 今いまだに憶おぼえてゐるが、立止たちどまつて兩手りやうてを擧あげると、トンと誰だれかに背後うしろから衝飛つきとばされた。 ツカ〳〵と前まへへ出でる――と、もう其儘そのまゝ暑あついことも草臥くたびれたことも忘わすれて、愴惶あわたゞしく、人ひとを押分おしわけて、何方いづくともなく進すゝんで行いつた。 際限さいげんもない、無言むごんの人ひとの列れつの間あひだを、右左みぎひだりに赤あかい炎もえそうな頸窩ぼんのくぼを視みて、グタリと下さげた熱あつい銃劒じうけんと殆ほとんど擦すれ〳〵に大分だいぶ進すゝんだ時とき、何なにを私わたしは爲してゐるので、何處どこへ此樣こんなに急いそいで[Pg 7]行ゆくのだらうと、立止たちどまつた。 で、急いそいで向直むきなほつて、無理無體むりむたいに列外れつぐわいへ出でて、とある窪地くぼちを越こえ、其處そこの石いしの上うへに焦燥せか〳〵と腰こしを卸おろした所ところは、このざらざらの燒石やけいしを目的めあてに、これまで藻搔もがいて來きたやうであつた。

 其時そのとき始はじめて氣きが附ついた。 日光につくわうの惶きらつく中なかを、暑あつさに弱よわり、ヘト〳〵に草臥くたびれて、無言むごんでふら〳〵と行いつては倒たふれる者ものは、これは皆みな狂人きちがひだ。 何處どこへ行ゆくのか、何なんで日ひに照付てりつけられるのか、誰だれも知しらない、誰だれも何なにも知しつてゐない。 胴どうの上うへに在あるのは首くびではなくて、變へんな気味きみの惡わるい物ものだ。 と見みると一[Pg 8]人ひとり、矢張やつぱり私わたしのやうに、愴惶あわたゞしく列外れつぐわいへ脫出ぬけだしてバタリと倒たふれる、續つゞいて又また一人ひとり、又また一人ひとりヽヽヽと、群むらがる人ひとの頭あたまの上うへに馬うまの首くびが見みえる。 血走ちばしつた物狂ものぐるほしい目色めつきをして、齒齦はぐきまで露出むきだした所ところは、不氣味ぶきみな奇怪きくわいな叫聲さけびごゑを立たてゝゐるやうに見みえたけれど、其聲そのこゑが聞きこえるでもなかつた。 首くびが見みえて、バタリと倒たふれると、其處そこに暫しばし人ひとだかりがする。 皆足みなあしを駐とゞめて、皺嗄しやがれた冴さえぬ聲こゑで何なにやら喚わめくとドンと一發ぱつ銃聲じうせいが聞きこえて、又皆またみな默だまつて動出うごきだして、際限さいげんもなく續つゞいて行ゆく。 私わたしはやがて一時間じかんも石いしの上うへに腰こしを掛かけてゐたが、其間そのあひだ絕たえず人影ひとかげは眼前がんぜんを[Pg 9]過すぎ行ゆいて、空そらはゆすれ、地ちは搖ゆるぎ、遠とほく幽靈いうれいの如ごとくに行ゆく隊伍たいごの影かげは戰をのゝくやうに見みえた。 骨ほねを枯からさむとする暑あつさは更さらに肉にくに徹とほつて、瞥ちらりと眼めに映うつつた物ものは、直すぐ忘わすれて了しまふ。 眼前がんぜんを過すぎ行ゆく人影ひとかげは暫しばらくも絕たえぬが、過すぎ行ゆく人ひとの誰だれだかは分わからない。 一時間程前じかんほどまへに此石このいしに腰こしを掛かけてゐたのは私わたし一人ひとりだつたが、今いまは周圍ぐるりに灰色はいゝろの人ひとが一塊ひとかたまりり集あつまつた。 或者あるものは地ちに伏ふして動うごかない。 死しんでゐるのかと思おもはれる。 或者あるものは私わたしのやうに石いしに腰こしを掛かけて、氣脫きぬけしたやうな面かほをして、通とほる人ひとを見みてゐる。 銃じうを持もつてゐる者ものは兵士へいしらしいが、丸裸まるはだかに近ちかい姿すがた[Pg 10]で、蘇枋染すほうぞめの、見みるも厭いやらしい色合いろあひの肌はだをした者ものもある。 つい其處そこに誰だれだか素肌すはだの背せを上うへに向むけて寢ねてゐる。 稜立かどだつた熱あつい石いしに面かほを伏ふせて平氣へいきでゐるさへあるに、仰向あふむけにした掌てのひらを見みれば白しろいから、死人しにんのやうであるけれど、背せの色いろは生人せいじんのそれの如ごとく赤あかい。 唯たゞ燻肉くすべにくのやうに聊いさゝか黄味きみを帯おびてゐるので、此世このよの人ひとでない事ことが知しれる。 私わたしは此この死骸しがいの側そばを退どきたかつたが、退どく力ちからが無なかつたのでふら〳〵しながら、矢張やつぱりふら〳〵と幽靈いうれいのやうに行ゆく人ひとの際限さいげんもなく續つゞく列れつを見みてゐた。 今いまにも日射病につしやびやうに罹かゝるのは頭あたまの工合ぐあひでも知しれてゐたが、平氣へいき[Pg 11]で其それに罹かゝるのを待まつてゐた。 宛まるで夢心地ゆめごゝちで、死しといふものは、不思議ふしぎな綾あやに絡からむだ夢想むさうの街道かいだうの立塲たてばか何なんぞのやうに思おもはれた。

 と見みると、連つれを離はなれて思切おもひきつた體ていに此方こちらを目蒐めがけて來くる一人ひとりの兵へいがある。 其姿そのすがたがしばし窪くぼみに隱かくれて、やがて又また其それを這出はひだして來くるのを見みれば、危あぶない足取あしどりで、手ても足あしも頽然ぐたりとなりさうなのを、然さうはさせまいと力りきむのが、もう精せい一杯ぱいの所ところらしい。 正面まともに私わたしを目蒐めがけて來くるので、苦くるしい夢ゆめにもやもやと腦なうを閉とぢられさうな中なかでも、駭然ぎよツとして、「何なんだ?」

 [Pg 12]聲こゑを掛かけると、兵へいはピタリと立止たちどまつた。 聲こゑの掛かゝるのを待まつてゐたのかと思おもはれる。 髯ひげむしやの大男おほをとこで、襟えりの裂さけた服ふくを着きて、衝立つツたつてゐる。 銃じうを持もつてゐなかつた。 ズボンは釦一ボタンひとつで支さゝへてゐて、その綻ほころびの切目きれめから白しろい肌はだが透すいて見みえる。 手足てあしが頽然ぐたりとだらけるのを、だらけさすまいと氣きを張はつてゐるけれど、もう其それも叶かなはぬ。 一ひとつに寄よせた手てが直すぐとダラリと左右さいうに垂たれる。

「貴樣きさま如何どうしたのか? まあ、坐すわれ。」

 けれども兵へいは衝立つツたつたまゝ、締しめても〳〵だらけながら、默だまつて人ひとの面かほを視みてゐる。 私わたしも我知われしらず[Pg 13]起上たちあがつた。 よろ〳〵しながら其眼そのめを覗のぞき込こむと限かぎりなき怖おそれと狂くるつた氣きが浮ういて見みえる。 誰だれの瞳ひとみも皆みな蹙しゞまつてゐるのに、これのばかりは眼め一杯ぱいに擴ひろがつてゐる。 かうした大おほきい窓まどから覗のぞいたら、外そとは嘸さぞ火ひの海うみのやうに見みえやう。 偶然ひよツとしたら、これの眼色めざしに浮うかんでゐるのが死しの影かげではあるまいかと思おもはれた――いや、さう思おもはれたばかりではない、それに相違さうゐなかつたのだ。この眞黑まつくろな、底そこも知しれぬ、烏からすのそれのやうにオレンジ色いろの細ほそい縁ふちを取とつた瞳ひとみには、死し以上いじやう、死しの恐怖きやうふ以上いじやうのものが浮ういてゐたのだ。

[Pg 14]「彼方あツちへ行いけ、彼方あツちへ!」と一足ひとあし退さつて、私わたしは喚わめいた。

 と、かう言いふのを待まつてゐたやうに、其兵そのへいがバタリと私わたしの上うへへ倒たふれ懸かゝつた。 頽然ぐたりとした、物ものを言いわぬ、大おほきな奴やつに推倒おしたふされて、私わたしも倒たふれた。 わなゝきながら、壓付おしつけられた足あしを引外ひツはづして、跳起はねおきるや――もう方角はうがくも何なにも有あつたものでない、唯たゞ人ひとの居ゐぬ方はうへ、唯たゞ日光ひかげのちらつく遠方ゑんぱうへ逃にげやうとする時とき、右手ゆんでの山やまの嶺いたゞきでドンと一發ぱつ鳴なる。 直すぐ其後そのあとから木魂こだまのやうに續つゞけざまにドン〳〵と二發はつ鳴なる。 と、何處どこか頭上づじやうを破裂彈はれつだんが飛とんで行ゆく。 其音そのおとに大[Pg 15]勢おほぜいが喜よろこび勇いさむで、喚わめき、叫さけび、哮たけるやうな聲こゑが籠こもつて聞きこえた。

 敵てきが迂廻うくわいした!

 死しにさうな暑あつさも、怖おそろしさも、疲つかれも、さらりと忘わすれる。 氣きが判然はつきりする。 思おもふ所ところが顕けざやかに浮上うきあがる。 息いきせき切きつて、走はしつて立直たちなほつた列れつに就つかうとする時とき、晴はれやかな嬉うれしさうな面かほがちら〳〵見みえ、皺嗄しやがれ聲ごゑで喚わめく聲こゑが聞きこえ、號令がうれいが聞きこえ、無駄口むだぐち叩たゝく聲こゑも聞きこえた。 日ひは邪魔じやまにならぬやうに競上せりあがりでもしたのか、朦朧ぼんやりとなつて押鎭おしゝづまる――と、又また魔法使まはふづかひがキゝと叫さけぶやうな音おとを立たてゝ、空くうを截きつて[Pg 16]破裂彈はれつだんが飛とぶ。

 私わたしは隊たいに近ちかづいた…

(斷篇第二)

 …馬うまも兵へいも皆みな戰死せんしした。 第だい八砲列はうれつも其通そのとほり。 我わが第だい十二砲列はうれつで、三日目みツかめの夕刻ゆふこくまで無事ぶじであつたのは僅わづか砲はう三門もんと、――跡あとは皆壞みなこはされて了しまつたので、――それに砲手はうしゆ六人にんに將校しやうかう一人ひとりといふのが即すなはち私わたしだ。 もう二十時間じかんも一睡すゐもせず、何なにも食くはない。 三晝夜ちうやもサタンの磤はためき哮たける中なかに居ゐたので、狂氣きやうきの黑雲くろくもに引包ひツつゝまれて、地ちを離はなれ、空そらを離はなれ、味方みかた[Pg 17]を離はなれて、生いきながら狂人きやうじんの如ごとくに小迷さまよふ。 死人しにんは靜しづかに臥ねても居ゐるが、吾々われ〳〵はくれ〳〵と立働たちはたらいて、勤つとめる所ところは勤つとめ、物ものを言いひ、笑わらひまでして、――それでゐて宛然さながらの狂人きやうじんだ。 危あぶな氣げなく活溌くわつぱつに働はたらいて、命令めいれいも明瞭はツきり下くだせば、又其またそれを間違まちがひなく仕遂しとげても行ゆくが、それでゐて、若もし突然とつぜん誰だれかを捉つかまへて、お前まへは誰だれだと聞きいたなら、うやむやの頭あたまでは、恐おそらく何なんと答こたへたものか、分わからなかつたらう。 夢ゆめを見みてゐるやうなもので、誰だれの顏かほも疾とうからの馴染なじみらしく見みえ、何事なにごとが起おこつても、矢張やツぱり嘗かつて有あつた、覺おぼえのある、知しり拔ぬいてゐる事ことのやうに思おも[Pg 18]はれるが、其癖そのくせ誰だれかの顏かほが砲はうを凝じツと視みてゐると、或あるひは砲聲はうせいに耳みゝを傾かたむけてゐると、どれも〴〵皆みんな目めの覺さめる程ほど珍めづらしくて、解といても〳〵解とき盡つくせぬ謎なぞか何なんぞのやうに思おもはれる。 何時いつの間まにか夜よになる。 それと氣きが附ついて、何處どこの隅すみから暗くらくなつて來きたのかと怪あやしむ間まさへなく、又また頭あたまの上うへで赫くわツと日ひが照てり出だす。 偶々たま〳〵餘處よそから來きた者ものに聞きいて、始はじめて戰鬪せんとうも最もう三日目みツかめと分わかるが、それも傍そばから直すぐ忘わすれて了しまふ。 如何どうやら暮くれも明あけもせぬ延のべたらの一日じつのやうで、暗くらい時ときもあれば、明あかるい時ときもあるが、何いづれにしても滅茶苦茶めちやくちやで、薩張さツぱり譯わけが分わからない。 而さう[Pg 19]して誰だれも死しを畏おそれない。 死しぬといふのが如何どんな事ことだか、それも分わからない。

 三日目みツかめだつたか、四日目よツかめだつたか、覺おぼえがないが、一寸ちよツと胸壁きょうへきの蔭かげで横よこになつて眼めを閉とぢると、忽たちまち例れいの馴染なじみの、しかし不思議ふしぎな物ものが見みえる。 それは靑色あをいろの壁紙かべがみが少すこしばかりと、私わたしのと極きめた小卓こテーブルの上うへの埃塗ほこりまぶれの手着てつかずの壜びんで、隣室りんしつには妻さいも忰せがれも居ゐるやうだが、姿すがたが見みえぬ。 唯たゞ此時このときは卓テーブルの上うへに綠色みどりいろの笠かさを被きたランプが點とぼつてゐたから、宵よひか夜中よなかだつたに違ちがひない。 で、かうした所ところが眼前がんぜんに留とまつて動うごかぬから、私わたしは永ながいこと、心靜こゝろしづかに、ため[Pg 20]つすがめつ壜びんのグラスにちらつく火影ほかげを視み、壁紙かべがみを眺ながめて、心こゝろの中うちで、もう夜よるだ、寢ねる時分じぶんだのに、何故なぜ坊ばうは寢ねないのだらうと思おもつてゐた。 で、又また壁紙かべがみを眺ながめて見みると、唐草からくさに、銀色ぎんしよくの花はなに、格子かうしのやうな物ものに、管くだのやうな物ものと――や、我わが居間ゐまながら、かうも能よく見識みしつてゐやうとは思おもひ掛がけなかつた。 時々とき〴〵目めを開あいて、處々ところ〴〵美うつくしい明あかるい縞しまの入はいつた眞黑まつくろな空そらを眺ながめては、又また目めを閉とぢて、更さらに壁紙かべがみを視み、壜びんの光ひかるのを視みて、もう夜よるだ、寢ねる時分じぶんだのに、何故なぜ坊ばうは寢ねないのだらうと思おもふ。 一度ど近ちかくで砲彈はうだんが破裂はれつした。 其時そのとき何なにやら兩足りやうあしにふわりと[Pg 21]觸ふれたと思おもふと、誰だれだか大聲おほごゑで、砲彈はうだんの破裂はれつした音おとよりも上手うはての聲こゑで、ワッと叫さけんだ。 誰だれか射やられたなと思おもつたが、起上おきあがりもせんで、私わたしは凝然ぢツとあからめもせず靑色あをいろの壁紙かべがみと壜びんを眺ながめてゐた。

 軈やがて起上おきあがつて、歩あるき廻まはり、指揮しきをしたり、人ひとの顏かほを覗のぞき込こむだり、照準せうじゆんを極きめたりしたが、心こゝろでは矢張やツぱり、何故なぜ坊ばうは寢ねないのだらう、と思おもつてゐた。 一度ど傳騎でんきに其その理由わけを聞きいたら、永ながいこと何なんだか事細ことこまかに説明せつめいして呉くれて、二人ふたりで點頭うなづきあつた。 傳騎でんきは笑わらつた。 其面そのかほを見みると、左ひだりの眉まゆを釣上つりあげて、背後うしろの誰だれかに擽くすぐツたい目交めまぜをしてゐたが、背後うしろ[Pg 22]には誰だれかの足あしの裏うらが見みえたばかりで、外ほかには何なにも見みえなかつた。

 此時このとき四邊あたりは最もう明あかるくなつて居ゐたが、不意ふいにポツリと降ふつて來きた。 なに、雨あめと云いつても矢張やツぱり故鄉くにで降ふるやうな雨あめで、ほんの詰つまらん點滴しづくでは有あつたけれど、不意ふいに、降ふらずもの時ときに降ふつて來きたので、皆みな濡ぬれるのを畏おそれて、狼狽らうばいして射擊しやげきを中止ちうしし、砲はうも何なにも放散ほりちらかして置おいて、やたら無性むしやうに其處そこらの物蔭ものかげへ逃にげ込こむだ。 只たツた今いま私わたしと物ものを言いつてゐた傳騎でんきは、砲車ほうしやの下したへ潜もぐり込こむで身みを縮ちゞめてゐたが、――危あぶない、今いまにも壓潰おしつぶされるかも知しれないのに、[Pg 23]太ふとつた砲手はうしゆは、何なんと思おもつてか、或ある戰死者せんししやの服ふくを剝はぎに掛かゝつた。 私わたしは陣地ぢんちを走はしり廻まはつて、蝙蝠傘かうもりがさだか、外套ぐわいたうだかを捜さがしてゐた。 蔽かぶさる雲くもの中なかから雨あめの降ふり出だしたのは隨分ずゐぶん廣ひろい塲面ばめんだつたが、其その塲面ばめん全體ぜんたいにふツと妙めうに寂然しんとなる。 榴霰彈りうさんだんが一ひとつ後馳おくればせにブンと飛とんで來きて、パッと破裂はれつして、又また寂然しんとなる。 寂然しんとなつたので、太ふとつた砲手はうしゆの荒あらい鼻息はないきが聞きえる。 石塊いしころや砲身はうしんを打うつ雨あめの音おとも聞きこえる。 かう寂然しんとした中なかで、ぱら〳〵といふ閑しづかな秋あきめかしい雨あめの音おとを聽きき、濡土ぬれつちの香かを嗅かぐと、淺あさましい血羶ちなまぐさい夢ゆめが瞬またゝく間ま覺さめたやうな氣きがして、雨あめにき[Pg 24]らつく砲身はうしんを見みれば、幼おさない頃ころの事ことでもない、初戀はつこひでもない、しめやかに懷なつかしい何なにかゞ、不思議ふしぎにもふと想出おもひだされる。 此時このとき遠方ゑんぱうでドンと最初さいしよの一發ぱつが際立きはだつて音高おとたかく鳴なると、一寸ちよツと寂然しんとしたのに魅みせられてゐた氣味きみは去さつて、皆みな隱かくれ塲ばから這出はひだす。 逃込にげこむ時ときのやうに、這出はひだす時ときも唐突たうとつだつた。 太ふとつた砲手はうしゆが誰だれかを叱しかり飛とばす。 砲はうが鳴なる、又また鳴なる――と散々さん〳〵惱なやまされ拔ぬいた腦なうが又また絳あかい霞かすみに直ひたと鎖とざされる。 雨あめは何時いつ止やんだか、誰だれも氣きが附つかなかつたが、砲手はうしゆが戰死せんしして其そのむく〳〵と太ふとつた顏かほの肉にくが落おちて黄きばむでも、尙なほ點滴しづくが垂たれてゐたのを今いまに覺おぼ[Pg 25]えてゐるから、何なんでも隨分ずいぶん長ながいこと降ふつてゐたに違ちがひない。

 …未まだ生若なまわかい志願兵しぐわんへいだつたつが、私わたしの前まへに直立ちよくりつして擧手きよしゆの禮れいをしながら報告ほうこくするのを聞きくと、司令官しれいくわんから、其隊そのたいはもう二時間じかん支さゝふべし、されば援兵ゑんぺいを送おくるといふ命令めいれいださうだ。 私わたしは何故なぜ坊ばうはまだ寢ねないのだらうと心こゝろでは思おもいながら、口くちでは何時間なんじかんでも支さゝへてお目めに掛かけると答こたへた。 さう答こたへた時とき、何故なぜだか其その志願兵しぐわんへいの面かほがふと目めに留とまる。 大方おほかた非常ひじやうに蒼褪あをざめてゐた所爲せゐだつたらう。 之程これほど蒼白あをじろい面かほを見みた事ことがない。 死人しにんの面かほだつて、此髭このひげのない若[Pg 26]若わかわかしい面かほから見みれば、まだ紅味あかみがある。 必かならず途中とちうで度膽どぎもを拔ぬかれたのが未まだ直なほらなかつたのに違ちがひない。 目庇まびさしへ手てを擧あげてるのは、この慣なれた無雜作むざうさな手振てぶりで、氣きも漫そゞろになる程ほどの怖おそろしさを紛まぎらさうとしてゐたのだらう。

「怖おそろしいのか?」といひながら其手そのてに觸ふれて見みると、手ては棒ぼうのやうに硬こはばつてゐたが、當人たうにんは幽かすかに莞爾にツことしたばかりで、何なんとも言いはなかつた。 いや、寧むしろ口元くちもとで微笑びせふの眞似まねをしたばかりで、眼めには唯たゞ初々うひ〳〵しさ、怖おそろしさが光ひかるのみ、其外そのほかには何なにも無なかつた。

[Pg 27]「怖おそろしいのか?」と私わたしは又また優やさしく言いつて見みた。

 志願兵しぐわんへいが何なにか言いはうとして口元くちもとを動うごかした時とき、不思議ふしぎな、奇怪きくわいな、何なんとも合點がてんの行ゆかぬ事ことが起おこつた。 右みぎの頰ほうへふわりと生溫なまぬるい風かぜが吹付ふきつけて、私わたしはガクッとなつた――唯たゞ其丈それだけだつたが、眼前がんぜんには今迄いままで蒼褪あをざめた面かほの在あつた處ところに、何なんだかプツリと丈たけの蹙つまつた、眞紅まつかな物ものが見みえて、其處そこから鮮血せんけつが栓せんを拔ぬいた壜びんの口くちからでも出でるやうに、ドク〳〵と流ながれてゐる所ところは、拙まづい繪看板ゑかんばんに能よく有ある圖づだ。 で、そのプツリと切きれた眞紅まつかな物ものから血ちがドク〳〵と流ながれる處ところに、齒はの無ない顏かほでニタリと笑わらつて赤あかい笑わらひ[Pg 28]の名殘なごりが見みえる。

 これには見覺みおぼえがある。 之これを尋たづねて漸やうやく尋たづね當あてたのだ。 其處そこらの手てが捥もげ、足あしが千切ちぎれ、微塵みぢんになつた、奇怪きくわいな人體じんたいの上うへに浮ういて見みえる物ものを何なにかと思おもつたら、是これだつた、赤あかい笑わらひだつた。 空そらにも其それが見みえる。 太陽たいやうにも見みえる。 今いまに此この赤あかい笑わらひが地球全體ちきうぜんたいに擴ひろがるだらう。

 皆みなもう平氣へいきで瞭然はつきりと狂人きちがひのやうに…

(斷篇第三)

 …物狂ものくるほしさと怖おそろしさとだ。

 [Pg 29]風聞ふうぶんに據よると、敵てきにも味方みかたにも精神病せいしんびやうの患者くわんじやは夥おびたゞしいものだと云いふ。 我軍わがぐんでも精神病舎せいしんびやうしやが四棟よむね出來できた。參謀部さんぼうぶへ行いつた時とき、副官ふくゝわんが見みせて呉くれたが…

(斷篇第四)

 …蛇へびのやうに絡からみ付つく。 現げんに其その友人いうじんが見みて來きての話はなしに、鐵條網てつでうもうの一端たんがプツリと切きれて、ピンと跳返はねかへつて、クル〳〵と兵へい三人にんに絡からみ付ついた。 齒はが軍服ぐんぷくを突拔つきぬいて肉にくに喰込くひこむから、兵へいは悲鳴ひめいを揚あげて、狂氣きやうきの如ごとく轉ころげ廻まはつてゐる中うちに、一人ひとりは死しん[Pg 30]で了しまつたが、其その死骸しがいを跡あとの二人ふたりが引摺ひきずつて轉ころげ廻まはる。 やがて生いきてゐるのは一人ひとりとなる。 生殘いきのこつたのが、二人ふたりの死骸しがいを突離つきはなさうとするけれど、死骸しがいは附纏つきまとつて來きて、一緒しよに轉ころがり、三人にんの體からだが上うへになり下したになりしてゐる中うちに、ふと一度どにパタリと動うごかなくなつて了しまつたさうだ。

 友ともの話はなしだと、此この鐵條網てつでうもう一ひとつで二千からの戰死者せんししやを出だしたと云いふ。 皆みな鐵條網てつでうもうを截きらうとして、蛇へびに卷付まきつかれたやうに、進退しんたいの自由じいうを失うしなつてゐる處ところを、大小だいせうの彈丸だんぐわんを雨あめの如ごとく間斷かんだんなく浴あびせ蒐かけられたのだ。 怖おそろしいとも何なんとも云樣いひやうがない。 若もし逃にげる[Pg 31]方角はうがくが分わかつてゐたら、臆病風おくびやうかぜに吹卷ふきまくられて此時このときの攻擊こうげきは總崩そうくづれになつたらうが、何なにしろ十重二十重とへはたへ鐵條網てつでうもうを張渡はりわたしてある。 必死ひつしになつて其それを破やぶると、今度こんどは底そこに杭くひを打込うちこんだ狼穽らうせいが幾いくつとなく掘ほつてあつて、是これが又また迷宮同樣めいきうどうやうとあるから、皆みな度どを失うしなつて了しまつて、逃にげる方角はうがくが附つかなかつたのだと云いふ。

 或者あるものは全まつたく盲目めくらのやうになつて、漏斗形じやうごがたした深ふかい坑あなに踏ふん込ごみ、尖とがつた杭くひの先さきに芋刺いもざしになつて、虚空こくうを掴むで藻搔もがく。 宛然さながら玩具おもちやの道化人形どうけにんぎやうが踊をどるやうだ。 其上そのうへへ又また來きては突刺つゝさゝるから、まだ溫味ぬくみのある、或あるひは冷ひえ切きつた、血塗ちみどろの體からだがうよ〳〵と盛[Pg 32]上もりあがつて、直ぢき坑あな一杯ぱいになつて了しまふ。 其處そこにも此處こゝにも腕うでが如龜々々によき〳〵と突出つきでてゐて、痙攣けいれんを起おこしてヒク〳〵してゐる指先ゆびさきで何なんにでもしがみ付つく。 一度ど陷おちたら、最もう出でられない。 剛こはばつて蟹かにの鋏はさみのやうになつた數百すひやくの指ゆびが、無性むしやうに足あしを引掴ひつゝかみ、服ふくを引掴ひつつかみ、己おのが上うへへと引倒ひきたふして置おいて、眼肉がんにくを抉ゑぐり、首くびを締しめる。 が、大抵たいていは酒さけにでも醉よつてゐるやうに、正面まともに鐵條網てつでうもうを目蒐めがけて駆出かけだし、引掛ひつかゝつて喚わめき叫さけんでゐる中うちに、彈丸たまに中あたつて往生わうじやうして了しまふ。

 さうはいふものゝ、醉漢ゑひどれのやうになるのは一般ぱんの事ことで、鐵條網てつでうもうに手てや足あしを絡からめられゝば、誰だれでも[Pg 33]大おほいに罵のゝしつたり、或あるひは笑わらつたりする。 而さうして其儘そのまゝ死しんで了しまふ。 この話はなしをした男をとこも、朝あさから飲のまず食くはずでゐたのださうだが、不思議ふしぎな氣持きもちで、怖おそろしい怖おそろしいで目めが眩くらむ最中さなかに、一寸ちよつとの間ま無性むしやうに愉快ゆくわいになる――怖おそろしいのが愉快ゆくわいなのだ。 誰だれだか隣となりで歌うたを唄うたひ出だしたから、一緒しよになつて唄うたつてゐると、頓やがて其處そこらの者ものが皆仲間みなゝかまへ入はいつて立派りつぱな合唱がつしやうになる。 拍子ひやうしが中々なか〳〵好よく揃そろふ。 何なにを唄うたつたか、覺おぼえがないが、何なんでもかう愉快ゆくわいな舞踏歌ぶたううたのやうな物ものだつたと云いふ。 で、唄うたつてゐると、其處そこらが血塗ちみどろに眞紅まつかになる。 空そらまで眞紅まつかに見みえて、天地間てんちかんに[Pg 34]何なにか一大變異だいへんい、奇怪きくわいな變化へんくわが起おこつたやうな氣勢けはひで、物ものの綾色あいろも分わからなくなる。 水色靑みづいろあをなどゝいふ穩おだやかな目めに慣なれた色いろは消きえて了しまつて、太陽たいやうが眞紅まつかにベンガラ色いろに炎もえる。

「赤あかい笑わらひだ」

 と私わたしは言いつたが、相手あひては其意味そのいみが了解のみこめんで、

「さう、笑わらひもした。 今話いまはなした通とほりだ。 宛然まるで皆酒みンなさけに醉よつてるやうだつた。 いや、舞踏ぶたうも行やつたらう。 何なんでも何なにか行やつた。 少すくなくも其その三人にんの兵へいの藻搔もがく所ところは、宛然まるで舞踏ぶたうのやうだつた。」

 今いまでも判然はつきり覺おぼえてゐるさうだが、此男このをとこが胸むねに貫[Pg 35]通創くわんつうさうを受うけて倒たふれてからも、失神しつしんする迄までは、舞踏ぶたうで誰だれかと足拍子あしびやうしを揃そろへるやうに、足あしをピク〳〵と行やつてたさうだ。 今いまとなつて此日このひの攻擊こうげきを憶出おもひだすと妙めうな氣持きもちがして、怖おそろしい事ことは怖おそろしいが、最もう一遍ぺん彼樣あんな思おもひをして見みたいやうな氣きもすると云いふ。

「而さうして又また胸むねへ一發ぱつ喰くひたいのか?」

 と私わたしがいふと、

「馬鹿ばか言いへ! 出でる度たびに彈丸たまを喰くふとは極きまつとりやせん。 そんな事こといふけど、君きみ、目覺めざましい働はたらきをしてさ、勲章くんしやう貰もらふのも惡わるくないぞ。」

 [Pg 36]さういふ其身そのみは鼻はなが尖とがつて、顴骨くわんこつが出でて、眼めが凹くぼむで、黄きいろい顏かほをして仰向あふむきに臥ねて、てもなく死人しにんだのに、まだ勲章くんしやうを夢ゆめに見みてゐるのだ。 もう化膿くわのうし出だして、甚ひどい熱ねつで、三日みツか經たてば穴あなの中なかへ轉ころがし込こまれて、死人しにんの仲間なかまへ入はいらなければなるまいに、臥ねながら目めを開あいて夢ゆめを見みて、莞爾々々にこ〳〵して、勲章くんしやうの噂うはさをしてゐるのだ。

「それは然さうと、阿母おツかさんの所とこへ電報でんぽう打うつたか?」

と私わたしは聞きいて見みた。

 すると、ハッとした樣子やうすで、險けはしい眼色めつきで忌々いま〳〵しさうに私わたしの面かほを眺ながめたなり、相手あひては默だまつて了しまつ[Pg 37]たから、私わたしも默だまつてゐた。 負傷者ふしやうしやが呻うめいたり、譫言うはごといつたりするのが耳みゝに附つく。 軈やがて私わたしが起上たちあがつて出でて行ゆかうとすると、友ともは熱ねつは有あつても未まだ力ちからの脫ぬけぬ手てで、緊しツかり私わたしの手てを握にぎつて、肉にくの落おちた炎もえるやうな眼めで、悲かなしさうに凝ぢツと私わたしの面かほを視詰みつめて、如何いかにも途方とはうに暮くれたといふ體ていで、

「君きみ一體たい如何どうしたつて云いふンだらう? え、君きみ?如何どうしたツて云いふンだらう?」と恟々おど〳〵しながら手てを引張ひツぱつて、切しきりに答こたへを逼せまる。

「何なにが?」

「何なにがつて、一體たい…今度こんどの戰爭せんさうさ。 母はゝは僕ぼくの歸かへるの[Pg 38]を待まつてるのだ。待まつてたつて、君きみ、如何どうなるもんか…國家こくかの爲ため――其樣そんな事ことは母はゝにや分わかりやせずさ。」

「赤あかい笑わらひだ。」

「また! 君きみは串戯じやうだんばかり言いつてるけれど、僕ぼくは眞面目しんめんもくだよ。 如何どうにかして納得なつとくさせたいけれど、納得なつとくさせやうがない。 まあ、君きみ、如何どんな事ことを言いつて寄越よこすと思おもふ? そりや、實じつに氣きの毒どくだ。 手紙てがみの文句迄もんくまで白髮しらがだ。 しかし、君きみも」、と珍めづしさうに人ひとの頭あたまを眺ながめて、指差ゆびさしをして、急きふに笑わらひ出だした。

「君きみも禿はげ出だしたなあ! 知しつてるか?」

[Pg 39]「鏡かゞみが無ないもの。」

「いや、しかし、白髮しらがになる奴やつや禿はげになる奴やつが大分だいぶ有あるぞ。 おい、鏡かゞみを貸かして呉くれ、鏡かゞみを! あゝ、僕ぼくも何なんだか白髮しらがが生はえて來きさうでならん。 鏡かゞみを貸かして呉くれ。」

 譫語うはごとを言出いひだして、泣ないたり笑わらつたりする。私わたしは病舎びやうしやを出でて了しまつた。

 其その夕方ゆふがた園遊會ゑんいうくわいが開ひらかれた。 不思議ふしぎな侘わびしい園遊會ゑんいうくわいで、來會者らいくわいしやの中うちには死人しにんの影かげも交まじつてゐた。 國くにでのピクニックの時ときのやうに、夕方ゆふがた集あつまつて茶ちやを喫のむ筈はずだつたので、湯沸ゆわかしの工面くめんをして、レモンや[Pg 40]コップまで用意よういして、矢張やツぱりピクニックの時ときのやうに、トある木きの下したを會塲くわいぢやうと極きめた。 で、一人ひとりづゝ、又または二人ふたり三人にん連立つれだつて、常談じやうだんなど言合いひあつて話はなしながら、皆みな樂たのしみにして浮浮うき〳〵と賑にぎやかに寄よつて來きたが、來くると直ぢきに默だまつて了しまつて、成なるべく顏かほを見合みあはせないやうにする。 かうして生殘いきのこつた者ものばかり寄よつて見みると、何なんとなく無氣味ぶきびだ。 皆みな見みるも淺あさましい薄汚うすきたない服装なりをして、惡性あくせいの疥癬かいせんでも病やむでゐるやうに、身體中からだぢうをぼり〳〵搔かく。 髮かみも髯ひげも延次第のびしだいで、窶やつれ切きつて、見慣みなれた昔むかしの姿すがたはないから、湯沸ゆわかしを中なかに、顏かほを合あはせて見みると、初はじめて逢あつたやう[Pg 41]な氣持きもちがして、愕然はツとする。 度どを失うしなつてうろ〳〵する此この人々ひと〴〵の中うちに、馴染なじみの面かほはないかと尋たづねて見みたが、一人ひとりも無なかつた。 わく〳〵として落着おちつきがなく、起居たちゐも荒あらく稜かどが有あつて、一寸ちよツとした音おとにも恟びくりとし、絕たえず後うしろを見みては何なにかに氣きを附つけ、何處どこかポカンと、不思議ふしぎな穴あなが明あく、その穴あなを覗のぞいて視みるも無氣味ぶきみなので、烈はげしい手眞似てまねで之これを塞ふさがうとするなど、如何どうしても見みも知しらぬ餘所よその人ひとで、馴染なじみがない。 聲こゑまでが異かはつてゐる。 激はげしく、稜立かどだつて、えいやつと物ものを言いふそれが、動やゝもすれば聲高こはだかになつたり、埒らちもない高笑たかわらひになつて、制とめやうにも制と[Pg 42]められぬ、といつた調子てうし。 異かはつてゐるのは其そればかりでなく、木きにも馴染なじみがなく、入日いりひにも馴染なじみがなく、水みづも異臭異味いしういみを帯おびた變かはつた水みづで、宛然さながら死人しにんと一緒しよに人ひとの世よを去さつて、何處どこか別世界べつせかいへでも來きたやうに、眼めに見みえる物ものが皆みな神秘しんぴで、怖おそろし氣げな影かげのやうな物ものが朦朧もうらうと其處そこらに滿みちてゐる。 入日いりひの影かげは黄きばむで冷つめたく、何處どこに明味あかるみもない眞黑まつくろな雨雲あまぐもが、凝こつたやうに、重おもたさうに、其上そのうへから覆かぶさつて、下したには大地だいちが黑々くろ〴〵と、人ひとの面かほも尋常たゞならぬ光ひかりを受うけて黄きいろく死人色しびといろに見みえる。 皆みな湯沸ゆわかしを見みてゐたが、湯沸ゆわかしの火ひは消きえて、腹はらには黄きいろく凄すごい[Pg 43]入日いりひの光ひかりを反射はんしやし、陰々いん〳〵として此世このよの物ものではないらしく、何なんだか本體ほんたいの分わからぬ、奇怪きくわいな湯沸ゆわかしであつた。

「此處こゝは何處どこだ?」と誰だれだか言いつたが、恟々おど〳〵した恐怖きやうふに滿みちた聲こゑだつた。 誰だれだか溜息ためいきをした。 と、わく〳〵して指ゆびの骨ほねを鳴ならす者ものがある、笑わらひ出だす者ものがある、躍をどり上あがつてテーブルの周圍まはりを急遽せか〳〵と廻まはり出だす者ものもあつたが、此頃このごろは能よく斯かうして急遽せか〳〵と殆ほとんど駆かけ出ださぬばかりに歩あるき廻まはる人ひとを見掛みかける。 而さうして皆みな妙めうに默だまつてゐる、物ものを言いつても口くちの中うちで沸々ぶつ〳〵言いうばかりだ。

[Pg 44]「戰地せんちさ」、と高笑たかわらひしてゐたのが答こたへて、更さらに又また笑わらひ出だしたが、冴さえぬ聲こえで、うふ〳〵と秩序だらしなく笑わらふ所ところは、何なにかゞ咽喉のどに塞つまつたやうだ。

「何なにが可笑をかしいンだ?」と、誰だれだつたか、向腹むかはらを立たてゝ、「こら、止よさんか!」

 すると、笑わらつてゐたのが又また更さらに咽喉のどに物ものが塞つまつたやうに、フゝと笑わらつて、而さうして大人おとなしく默だまつて了しまつた。 段々だん〴〵に薄暗うすぐらくなつて來きて、雨雲あまぐもは地ちを壓あつし、黄きいろく透徹すきとほるやうな互たがひの面かほも辛やツと見分みわけられる程ほどになつた。 誰だれだつたか、

「トキニ「大長靴おほながぐつ」は何處どこへ行いつたらう?」

[Pg 45]「大長靴おほながぐつ」と渾名あだなを呼よばれたのは、小造こづくりの癖くせに、大おほきな水浸みづしまずの長靴ながぐつを穿はいてゐる士官しくわんだつた。

「只たツた今いま此處こゝに居ゐたツけが…大長靴おほながぐつ、何處どこに居ゐる?」

 皆みな笑わらひ出だした。 その笑聲わらひごゑがまだ止やまぬ中うちに、暗黑くらやみから憤おこつたやうな尖とがり聲ごゑで、

「止よせ! 馬鹿ばかな! 大長靴おほながぐつは今朝けさ偵察ていさつに出でて討やられたのを知しらんか?」

「そんな筈はずはない。 只たツた今いま此處こゝに居ゐたンだもの。」

「そんな氣きがしたンだ。 おい、湯沸ゆわかしの側そばの先生せんせい、レモンを一ひとつ切きつて呉くれんか。」

[Pg 46]「僕ぼくにも! 僕ぼくにも!」

「レモンは悉みなになつた。」

「そりや不都合ふつがふだ」、と忌々いま〳〵しさうに、情なさけなさゝうに、殆ほとんど泣なかぬばかりに、小聲こごゑに言いつて、「レモンを樂たのしみにして來きたンだのに。」

 例れいのが又また冴さえぬ聲こゑで締しまりなく笑わらひ出だしたが、もう誰だれも止とめる者ものもなかつた。 が、直ぢきに笑わらひ止やんで、更さらに又またフゝと笑わらつて――と、默だまると、誰だれだつたか、

「明日あすは攻擊こうげきか。」

 すると、幾人いくたりかの聲こゑで、忌々いま〳〵しさうに叱しかり付つけ[Pg 47]た、

「止よせ、そんな話はなしは! 攻擊こうげきも糞くそも有あるもんか!」

「だつて君逹きみたちだつて知しらん事ことはあるまい…」

「止よせツてツたら、止よせ! 他ほかに話はなしが無ないぢや有あるまいし。 何なんだ、そんな事こと!」

 入日いりひの影かげは消きえた。 雨雲あまぐもも浮うき上あがつて、何處どことなく明あかるくなり、人ひとの面かほも皆みな見覺みおぼえのある面かほになつた。 今迄いまゝで周圍まはりをグル〳〵廻まはつて居ゐた男をとこも落着おちついて、其處そこの椅子いすへ腰こしを卸おろして、

「今いまごろ國くにぢや如何どんなだらう?」

 誰だれに言いふともなく言いつたのだが、其聲そのこゑに何なにか面[Pg 48]目めんぼくなさゝうに微笑につこりした響ひゞきがあつた。

 と、又また薄氣味惡うすきみわるく合點がてんの行ゆかぬ光景くわうけいになつて、其處そこらの物ものが悉こと〴〵く變へんに見みえるから、皆みな堪たまらなく夢中むちうになつて、一度どにコツプを推除おしのけ、互たがひの肩かた、腕うで、膝ひざに觸さはり合あつて、饒舌しやべり出だし、喚わめき初はじめ、暫しばらく紛紛ごたごたしてゐたが、ふと又また口くちを噤つぐむで了しまつた。 變へんな光景やうすは矢張やツぱり變へんでならぬ。

「國くにぢやア?」と誰だれだか暗黑くらやみから喚わめいた。 國くにの噂うはさが始はじまると、ハツトして、忌々いま〳〵しくもなるし、胸むねもわく〳〵するので、聲こゑまでが皺嗄しやがれた顫ふるへ聲ごゑになる。 で、饒舌しやべり出だしたが、時々とき〴〵言葉ことばに差支さしつかへる。 [Pg 49]もう國言葉くにことばも忘わすれてゐるやうで。 「國くにぢやア?國くにとは何なんだ? 國くにが何處どこかに有あるのか? 人ひとの物ものを言いつてる中うちに口くちを出だすな。 出だすと、打發ぶツぱなすぞ。 僕ぼくだつて、國くにに居ゐる時分じぶんにや、毎日まいにち湯ゆを沐つかつたもんだ――宜よろしいか、湯槽ゆぶねに湯ゆを入いれて――湯ゆを一杯ぱい入いれて沐つかつたもんだ。 ところが今いまぢや毎日まいにちは身體からだも拭ふかんから、頭あたまに雲脂ふけが溜たまる。 雲脂ふけが溜たまつて、結痂かさぶたのやうな物ものが出來できて、身體中からだぢう何なんだか這はふやうで、むづ痒がゆくツて〳〵…僕ぼかあ垢あかで氣狂きちがひになりさうだ。 それだのに君きみは國くにの噂うはさを始はじめたな? 僕ぼくはもう畜生ちくしやうだ、自分じぶんながら愛想あいそが盡つきる、自分じぶんとは思おもへん[Pg 50]位くらゐだ。 人間にんげんも斯かうなると、もう死しぬのも其樣そんなに惧おそろしくなくなる。 それに君逹きみたちが擊出うちだす榴霰弾りうさんだんで頭あたまが割われさうになるンだ、――頭あたまが。 何處どこへ向むけて擊うつたつて、皆みんな僕ぼくの頭あたまに當あたるンだから。 それだのに君きみは國くにの噂うはさを始はじめたな? 國くにとは何なんだ? 矢張やツぱり町まちが有あつたり、家うちが有あつたり、人ひとが居ゐたりするンだらう? 僕ぼくはもう戸外おもてへ出でるのも御免ごめんだ。 見みつともない! 此處ここに湯沸ゆわかしが有あるけど、湯沸ゆわかしを見みるのも極きまりが惡わるい、――湯沸ゆわかしを見みるのも。」

 例れいのが又また笑わらひ出だした。 誰だれだか大聲おほごゑに、

「糞くそツ! 僕ぼかあ國くにへ歸かへる。」

[Pg 51]「國くにへ歸かへる?」

「君きみは軍人ぐんじんの本分ほんぶんを忘わすれたな? …」

「國くにへ歸かへる? おい〳〵、此處こゝに國くにへ歸かへりたい者ものが一人ひとり出來できたぞ。」

 皆みなドット笑わらつた。 不氣味ぶきびな叫聲さけびごゑも聞きこえたが――又また皆みな口くちを噤つぐむで了しまつた。 矢張やツぱり變へんでならない。 私わたしばかりぢやない、幾人いくたり居ゐたか知しらないが、其塲そのばに居合ゐあはした者ものが皆みなさう感かんじた。 その變へんな氣勢けはひが、薄暗うすぐらい奇怪きくわいな野のから逼せまつて來くる、岩いはの挟間はざまに置忘おきわすられて、死しに瀕ひんした者ものが有あるかも知しれぬ、陰々いん〳〵と眞黑まつくろな谷間たにまからも立騰たちのぼる、見みも及およばぬ怪あやしの空そらからも[Pg 52]降おりる。 皆みな惧おそろしさに生いきた空そらはなく、默だまつて火ひの消きえた湯沸ゆわかしを圍かこむで立たつてゐたが、頭あたまの上うへには漫々まん〳〵と邊際へんさいもない黑くろい影かげが此世このよを壓あツして、慘さんとして音おともせぬ。 と、忽たちまち、ツイ間近まぢかの、多分たぶんは聯隊長れんたいちやうの宿舎しゆくしやあたりと思おもはれる處ところで、軍樂ぐんがくの彈奏だんそうが始はじまつて、無性むしやうに浮ういた高調子たかてうしの物ものの音色ねいろが夜よるの寂寞せきばくを破やぶつて、火花ひばなのやうにパツと起おこる。 餘あまり高過たかすぎ、餘あまり愉快過ゆくわいすぎる程ほどの急きふな亂調子らんてうしで、無性むしやうに競きそひ立たつて浮うかれてゐる。 大方おほかた彈奏者だんそうしやにも聽手きゝてにも、矢張やツぱり吾々われ〳〵同樣どうやうに、漫々まん〳〵と邊際へんさいもない黑くろい影かげの此世このよを壓あつするのが見みえるのだらう。

 [Pg 53]そのオーケストラの中なかで喇叭らツぱを吹ふいてゐる者ものだけは、正まさしく自分じぶんに、自分じぶんの腦なうに、耳みゝに、もうこの邊際へんさいもない無言むごんの影かげを宿やどしてゐるやうに思おもはれる。 險けはしい破やぶれたやうな喇叭らツぱの音おとが、駆巡かけめぐり、躍上をどりあがり、餘よの音おとを離はなれて何處いづくともなく、惧おそろしさに戰おのゝき〳〵、伴ともなふ物ものもなく獨ひとり狂くるつて行ゆく。 他ほかの樂器がくきの音色ねいろは此この喇叭らツぱの音おとを顧かへりみて驚おどろいたやうに、蹶つまづきつ、倒たふれつ、起おきつ、しどろもどろに見みともなく散ちつて行ゆく。 それが餘あまり高過たかすぎ、餘あまり愉快過ゆくわいすぎる程ほどの調子てうしで、これでは餘あまり眞闇黑まつくらがりの谷間たにまにも接近せつきんし過すぎる、――岩いはの狭間はざまに置忘おきわすられて死しに瀕ひんし[Pg 54]た者ものが有あるかも知しれぬのに。

 私逹わたしたちは久しばらく火ひの消きえた湯沸ゆわかしの周圍まはりに立たつて、默だまつてゐた。

(斷篇第五)

 …もう眠ねむつてゐたら、ドクトルが窃そツと突つゝいて覺おこすから、私わたしは目めを覺さますが否いな、呀あツといつて跳起はねおきた。 誰だれでも覺おこされると、斯かう聲こゑを立たてたものだつた。 で、天幕テントの外そとへ駈出かけださうとする私わたしの手てを、ドクトルは確しかと執とつて、而そして謝罪わびをいふ。

「唐突だしぬけに覺おこして濟すみませんでした。 お睡ねむからうとは[Pg 55]思おもつたが…」

「何なにしても五晝夜ちうやになるンですもの…」と、私わたしは言いつたが、半分はんぶんは夢ゆめで、其儘そのまゝ又また昏々うと〳〵となつた。 久しばらく眠ねてゐたやうだつたが、ドクトルが私わたしの橫腹よこはらや足あしを窃そつと突つゝき〳〵又また話はなし出だす聲こゑが耳みゝに入はいる。

「しかし止やむを得えんので。 貴方あなたもお辛つらからうが、實際じつさい止やむを得えんので。 どうも私わたしにや……安閑あんかんとして居をれん。 どうも私わたしにやまだ負傷者ふしやうしやが取殘とりのこしてあるやうに思おもはれて…」

「負傷者ふしやうしやとは? 今日けふ一日ンち收容しうようしてゐたぢやないですか? 私わたしを覺おこさんだツて好よさゝうなものだ。 餘あんま[Pg 56]り酷ひどい! 私わたしは五晝夜ちうやも眠ねなかつたのだ。」

「まあ、然さう憤おこつたものでない」、とドクトルは口くちの中うちで言いつて、無器用ぶきような手附てつきで私わたしの頭あたまへ帽ばうを冠かぶせてから、「皆みんな寐ね込こんで了しまつてゝ、幾いくら覺おこしても、起おきんのですもの。 機關車きくわんしやの車輛しやりやうが七臺だい用意よういしてあるのだが、乗のつて行手ゆきてがない。 そりや私わたしも察さつしる…が、何卒どうぞ、まあ、行いつて下ください。 皆みんな寐ね込こんで了しまつてゝ、如何どうしても行いかうと言いはん。 私わたしだってコクリとなりさうで仕方しかたがないのだ。 何日いつ寢ねたつけか、もう覺おぼえがない位くらゐのもので、そろ〳〵幻覺げんかくが始はじまりさうな氣きがする。 まあ、寢臺ねだいをお降おりなさ[Pg 57]い、片かた一方ぱうの足あしから。 そう〳〵…」

 ドクトルは蒼褪あをざめた顏かほをしてふら〳〵してゐる。 一寸ちよツとでも下したに居ゐたら、其儘そのまゝ何なん晝夜ちうやも打通ぶツとほしに寢ねかねない樣子やうすだ。 私わたしも足あしに他愛たあいがない。 と、鼻はなの先さきに眞黑まつくろな物ものが一列れつ見みえる。 それが餘あまり突然とつぜんで、意外いぐわいで、地ちから湧わいたやうだつたから、何なんでも歩あるきながら昏々うと〳〵してゐたに違ちがひないが、その眞黑まつくろな物ものは汽車きしやだつた。 暗くらくて能よくは見みえなかつたが、其その側そばをノソリ〳〵と默だまつて彷徨うろついてゐる者ものがある。 機關車きくわんしやにも車輛しやりやうにも燈火あかりが點ついてゐなかつた。 唯たゞ蓋ふたをした火口ほぐちから朦朧ぼんやりした火影ほかげが薄赤うすあかく線路せんろへ落お[Pg 58]ちてゐたのみで。

「何なんですか、これは?」と私わたしは逡巡しりごみをした。

「汽車きしやで行ゆくのです、汽車きしやで。 今いまの話はなしをもう忘わすれましたか?」とドクトルがいふ。

 寒さむい晚ばんでドクトルは震ふるへてゐる。 私わたしもそれを見みると、身體中からだぢうを擽くすぐられるやうな氣持きもちで、矢張やツぱりガタガタ震ふるへる。

「酷ひどいなあ!私わたしを見立みたつて連つれて行ゆくのは酷ひどい」、と私わたしは大聲おほごゑにいふと、

「靜しづかに、靜しづかに」、とドクトルは私わたしの腕うでを抑おさへた。

 誰だれだか暗黑くらやみから、

[Pg 59]「此この鹽梅あんばいぢや有ありツ丈たけの砲はうで一齋せい射擊しやげきをやつたつて、皆みんなビクともしないな。 敵てきも矢張やツぱり寢込ねこんでゐるだらうて。 今いまなら側そばへ行いつて片端かたツぱしから引括ひツくゝれる。 己おれは今いま哨兵せうへいの側そばを通とほつて來きたのだが、先生せんせい一寸ちよツと人ひとの面かほを見みたばかりで、何なんとも言いはん。 凝然ぢツとしてゐた。 屹度きツと矢張やツぱり眠ねてゐたんだらう。 能よくつんのめらないで居ゐたものさ。」

 と斯かう言いつて欠あくびをした。 で、さら〳〵と服ふくの擦すれる音おとのしたのは、大方おほかた伸のびをしたのだらう。 私わたしは車輛しやりやうへ攀よぢ登のぼらうとして胸むねを其その端はしに掛かけると――忽たちまち夢ゆめに入いつて了しまつた。 誰だれだか後うしろから持上もちやげる[Pg 60]やうにして載のせて吳くれたが、私わたしは其その人ひとを蹴飛けとばして、又また寐ねこけた。 と、夢ゆめの中うちにこんな話はなしが斷續とぎれ〳〵に聞きこえる。

「六ウエルスト行いつてからだ。」

「忘わすれたのかランプを?」

「いや、彼奴あいつは行いくまい。」

「此處こゝへ寄越よこせ。少すこし後あとへ退却すさらせた。 さうだ。」

 汽車きしやが居去ゐざる、何なにかガタ〳〵と鳴なる。 安樂あんらくに橫よこになつて斯かういふ音おとを聽きいてゐると、私わたしは次第しだいに目めが覺さめて來きたが、ドクトルは反かへツて寢入ねいつてゐる。 其その手てを握にぎつて見みると、死人しにんの其それのやうに頽然ぐたりとし[Pg 61]て重おもたい。 汽車きしやはもう動うごき出だして、心持こゝろもち震動しんどうしながら、探足さぐりあしで行ゆくやうに、用心ようじんしつゝ徐々そろり〳〵と進すゝむ。 看護手かんごしゆの醫學生いがくせいがランプに火ひを點とぼすと、其その光ひかりに車室しやしつの羽目はめや戶との黑くろい孔あなが照てらし出だされた。 憤々ぷん〳〵怒おこりながら、醫學生いがくせいが、

「馬鹿ばか々々〳〵しい! 今いま時分じぶん行いつたつて仕樣しやうがない。 貴方あなた、先生せんせいが寢込ねこまない中うちに覺おこして下くださらんか?寢込ねこん了ぢまつたら、もう駄目だめです。 僕ぼくも覺おぼえがある。」

 二人ふたりして搖覺ゆりおこしたら、ドクトルは起直おきなほつて不思議ふしぎさうにキヨロ〳〵して又また寢倒ねこけやうとするのを、[Pg 62]どツこい、然さうはさせなかつた。

「今頃いまごろウオツトカを一杯ぱいキユウと引懸ひツかけるなんぞは惡わるくないな」、と醫學生いがくせいがいふ。

 で、コニヤクを一口ひとくちづゝ飮のむだら、睡氣ねむけは奇麗きれいに去とれて了しまつた。 黑々くろ〴〵と大おほきい四角かくな戶とが薄赤うすあかくなり、終つひに赤々あか〳〵と點てらし出だされて、小山こやまの向むかふの空そら一杯いつぱいに火影ほかげが深々しん〳〵と映うつる。 宛然さながら眞夜中まよなかに日ひが出でたやうだ。

「あれは遠方ゑんぱうですな。 二十ウエルストも離はなれた處ところだ。」

「寒さむい、」といつてドクトルは齒はを切くひしばつた。

 [Pg 63]學生がくせいは一寸ちよつと戶との外そとを覗のぞいて私わたしを麾まねくから、覗のぞいて見みたら、地平線ちへいせんの處々ところ〴〵微ぼつと赤あかく音おともさせず鎭しづまり返かへつてゐる兵火へいくわの映うつりが、其それから其それへと連續れんぞくして、宛然さながら數す十の太陽たいやうが一度どに出でるやうで、もう左程さほど暗くらくもない。 遠方ゑんぱうの山々やま〳〵は黑々くろ〴〵と浪なみのうねつたやうに起伏きふくして劃然くつきり浮出ふきだし、近ちかくの物ものは皆みなしんめりとした寂しづかな光ひかりを受うけて赤々あか〳〵と見みえる。 學生がくせいの面かほを見みても、矢張やつぱり血ちに染そまつたやうに赤あかく、此世このよの人ひとの色いろでない。 血ちが飛散ひさんして空氣くうきとなり光ひかりとなつたやうに思おもはれる。

「負傷者ふしやうしやは餘程よつぽど有ありますか?」

 [Pg 64]と聞きくと、學生がくせいは手てを掉ふつて、

「狂人きちがひが多おほいのです。 負傷者ふしやうしやより狂人きちがひの方はうが多おほいのです。」

「本當ほんたうの狂人きちがひが?」

「假うその狂人きちがひといふのも無ないでせう。」

 と此方こちらを振向ふりむいた學生がくせいの目差めざしは凝然ぢつと据すわつて、物凄ものすごく、冷つめたい恐怖きやうふに充みちて、例れいの日射病につしやびやうで殪たふれた兵へいの目差めざし其儘そのまゝであつた。

「好加減いゝかげんな事ことを…」と面かほを反そむけると、

「其樣そんな事こと言いつて、ドクトルも矢張やつぱり狂くるつてますぞ。 まあ、一寸ちよつと御覽ごらん。」

 [Pg 65]ドクトルには私逹わたしたちの話はなしが聞きこえないやうだつた。 土耳古トルコ人じんのやうに箕踞あぐらをかいて、ふら〳〵しながら、唇くちびると指先ゆびさきを音おともさせず顫ふるはせてゐる其その目差めざしは矢張やツぱり凝ぢツと据すわり、茫然ぼツと鈍にぶく腑ふが脫ぬけたやうだつたが、

「寒さむい、」といつて微笑にツこりした。

「貴方あなたがたは實じつに酷ひどい人逹ひとたちだ!」と私わたしは大聲おほごゑに言いつて車室しやしつの隅すみへ行ゆき、「何なんだつて私わたしを引張ひツぱり出だしたんです?」

 誰だれも何なんとも言いはなかつた。 空そらは深々しん〳〵と益々ます〳〵赤あかくなつて行ゆく、それを學生がくせいは眺ながめてゐる。 頸窩ぼんのくぼの毛け[Pg 66]の縮ちゞれてゐるのも若々わか〳〵しい。 之これを觀みてゐると、何故なぜか繊細かぼそい女をんなの手てが此毛このけを弄せゝつてゐるやうに思おもはれてならぬ。 それが又また癪しやくに觸さはつて、遂つひに學生がくせい迄までが小面憎こづらにくくなつて來きて、面かほを見みると、胸むねがむかつく。

「君きみは何歲いくつです?」といつても返答へんたふをしない。 振向ふりむきもしない。

 ドクトルはふら〳〵しながら、

「寒さむい!」

 學生がくせいは餘所よそを向むいたまゝで、

「僕ぼくは何なんだ、僕ぼくは此世このよの何處どこかに町まちや家いへや大學だいがくが有あると思おもふと…」

 [Pg 67]ぷつりと言葉ことば尻じりを切きつて、これで言いひたい事ことを皆みな言いひ盡つくしたやうに默だまつて了しまふ。 ふと唐突だしぬけに汽車きしやが止とまつたので、私わたしは羽目はめに衝突ぶツかつた。 がや〳〵と人聲ひとごゑがする。 皆みな急いそいで外そとへ出でて見みた。

 機關車きくわんしやの直すぐ前まへの線路せんろの上うへに何なにか橫よこたはつてゐる。 大たいして大おほきな物ものでもなかつたが、それからヌツと足あしが一本ぽん出でてゐた。

「負傷者ふしやうしやですか?」

「いや、戰死者せんしゝやです。 首無くびなしだ。 しかし、こりや如何どうしても前まへの燈火あかりを點つけずにや居ゐられん。 これぢや轢潰ひきつぶす。」

 [Pg 68]足あしを突張つツぱつた物ものを線路せんろ外ぐわいへ投なげ出だしたら、虛空こくうを踏ふむで駈出かけだしでもするやうに、一寸ちよツと宙ちうで踏反ふんぞつて、ポンと眞暗まツくらな溝みぞの中なかへ陷はまつて了しまつた。 燈火あかりが點つく――と、もう機關車きくわんしやが眞黑まつくろに見みえる。

「おゝい!」と誰だれだか小聲こごゑで如何いかにも氣疎けうとさうに呼よぶ。

 今迄いまゝで聞きこえなかつたのが不思議ふしぎな位くらゐだが、何處いづくともなく方々はう〴〵に呻聲うめきごゑが聞きこえる。 高低たかひくのない、何なにかを搔かくやうな、幅はゞのある丈だけ不思議ふしぎに悠然ゆツたりした――のを通とほり越こして、もう如何どうなとなれと投なげ出だしたやうな呻聲うめきごゑだ。 今迄いまゝで隨分ずいぶん喚聲わめきごゑや呻聲うめきごゑを聞きいた事こともあ[Pg 69]るが、此樣こんなのを聞きいた事ことがない。 朦朧ぼんやりと薄紅うすあかい地面ぢつらには何なにも見みえないから、呻うめくのは大地だいぢか、それとも出でぬ日ひの光かげに照てらされた大空おほぞらかと怪あやしまれる。

「四ウェルスト來きた」、と機關士きくわんしがいふ。

「彼あの聲こゑは向むかふの方はうでするのだ」、とドクトルは行手ゆくてを指さす。 學生がくせいは愕然ぎよツとして徐々そろ〳〵此方こちらを向むき、

「何なんですか彼あの聲こゑは? いや、どうも、聽きいてをられん!」

「ま、行ゆかう。」

 で、私逹わたしたちは機關車きくわんしやの前まへに立たつて步あるいて行いつた。 銘々めい〳〵の影かげが繫つながつて長ながく〳〵線路せんろの上うへを這はつたが、[Pg 70]影かげは黑くろくはない、薄朦朧うすぼんやりと赤あかかった。 暗黑まつくろな空そらの端はしに、處々ところ〴〵兵火へいくわがしんめりと音おともさせず鎭しづまり返かへつて見みえる、それが映うつるからだ。 行程ゆくほどに例れいの物凄ものすごい、何なにが呻うめくとも知しれぬ、奇怪きくわいな呻聲うめきごゑが愈々いよ〳〵烈はげしくなり勝まさつて、血潮ちしほに赤あかい空氣くうきが呻うめくのか、乃至ないし天地てんちが呻うめくのかとばかりに、薄氣味うすきみがわるい。 浮世うきよには關繫かけかまひなさそうに、奇あやしく、間斷かんだんなく呻うめく聲こゑを聽きけば、時ときとしては野中のなかの螽斯きり〴〵す、單調たんてうで暑苦あつくるしさうに啼なく、夏なつの野中のなかの螽斯きり〴〵すの聲こゑに髣髴はうふつたることもある。 で、段々だん〴〵死骸しがいが澤山たくさんになる。 ざツと檢あらためては線路せんろ外ぐわいへ投出なげだしたが、皆みなもう何事なにごとにも頓着とんぢやくの[Pg 71]ない、物ものに動どうぜぬ、頽然ぐたりとした死骸しがいで、その轉ころがつてゐた跡あとには、地ちに吮込すひこまれて血潮ちしほが黑くろく膩あぶらぎつて汚點しみのやうに見みえる。 初はじめは數かずを讀よむでゐたが、其中そのうちに間違まちがへたから、それなりにして了しまつた。 死骸しがいは隨分ずゐぶん有あつた、――夜氣やき水みづの如ごとく、其處そこら一面めん押おしなべて呻聲うめきごゑだらけの、氣味きみの惡わるい夜よるにしてから、餘あまり有あり過すぎる程ほどに有あつた。

「何なんだあれは?」とドクトルが叫さけんで、誰だれを嚇おどす積つもりなのか、拳こぶしを固かためて揮ふつて示みせて、「一寸ちよツと――聽きいて御覽ごらん…」

 もう頓やがて五ウェルストになる。 呻聲うめきごゑは愈々いよ〳〵判然はつきり[Pg 72]と際立きはだつて來きて、もう此聲このこゑを出だす引歪ひきゆがめた口元くちもとも眼めに見みえるやうな心地こゝちがする。 薄紅うすあかい靄もやは此世このよの物ものとも覺おぼえぬ怪あやしき底光そこびかりを含ふくんで眼めも綾あやに迷まよふ中なかへ、私逹わたしたちが恐おそる〳〵看入みいつた時とき、殆ほとんど足元あしもとの線路せんろの下したで、救すくひを呼よぶぶが如ごとく、泣なくが如ごとく、高たかく呻うめく聲こゑがする。 聲こゑの主ぬしの負傷者ふしやうしやは直すぐ見付みつかつたが、手提てさげの光かげに照てらし出だされた其面そのかほを見みれば、面中かほぢうが眼めばかりかと思おもはれる程ほど大おほきな眼めだつた。 呻うめき止やんで私逹わたしたちの面かほや手提てさげを旋次せんぐりに看みる其その眼めの中うちには、人影ひとかげ火影ほかげを認みとめて喜よろこんで狂きやうせんと[Pg 73]する色いろの外ほかに、尙なほそれが直すぐ幻まぼろしと消きえやうかと、畏おそれて狂きやうせんとする色いろも動うごいてゐた。 或あるひは斯かう火ひを翳かざして屈こゞみ掛かゝつた人ひとの姿すがたが、血塗ちみどろの夢ゆめの中うちにもや〳〵となつた事ことが、既もう幾度いくたびも有あるのかも知しれぬ。

 尙なほ進すゝまんとして、忽たちまち又また二人ふたり負傷者ふしやうしやに出遭であつた。 一人ひとりは線路せんろの上うへに倒たふれてゐて、今いま一人ひとりは溝みぞの中なかで呻うめいてゐた。 此等これらを收容しうようする時とき、ドクトルは怒いかりに身みを戰わなゝかせて、此方こちらを向むき、

「如何どうです?」

 といつて面かほを反そむけた。 數步すうほすると、向むかふから輕傷者けいしやうしやが、片手かたてで片手かたてを支さゝへて、一人ひとりで步あるいて來きた。 仰向あふむいて來きて私逹わたしたちに衝當つきあたりさうだつたから、道みちを[Pg 74]開ひらいて通とほしてやつたが、一向かう氣きが附つかぬらしい。 恐おそらく私逹わたしたちの姿すがたが眼めへ入はいらなかつたのであらう。 機關車きくわんしやの前まへでト立止たちどまつて直すぐと身みを轉開かはして其その橫よこへ出でて、今度こんどは車輛しやりやうに沿ついて行ゆく。

「こら、お前まへその汽車きしやに乗のれ!」とドクトルが呼よび掛かけたが、返答へんたふもしなかつた。

 此等これらを手始てはじめとして、淺あさましい姿すがたが頓やがて線路せんろの上うへにも側そばにも頻しきりに出遭であつて、深々しん〳〵と赤あかく兵火へいくわの照反てりかへした野のは、魂たましひでも入はいつたやうに、一面めんにざわつき出だし、大叫喚だいきうくわん、號泣がうきふ、呪咀じゆそ、呻吟しんぎんの聲こゑがクワツと起おこる。 隆然むつくりと高たかくなつた黑くろい物ものの影かげが蠢うごめきの[Pg 75]た打廻うちまはる所ところを見みれば、まだ夢ゆめながら籠かごを出だされた蟹かにのやうに、手足てあしを張はつて、可怪をかしげな形かたちをして、どたりとして動うごき得えぬのもあれば、しどろに覺束おぼつかなく藻搔もがくのもあつて、どれも〳〵人らしくない。 或あるひは默だまつて言いひなり次第しだいになるのもある、或あるひは呻うめき、泣なき、惡體あくたい吐ついて、この夜よの血羶ちなまぐさく人間にんげんの生死しやうしに與あづからぬらしい光景やうすも、かうした深傷ふかでを負おうたのも、死駭しがいの中なかに獨ひとり取殘とりのこされてゐるのも、皆みな我我ひとの所爲せゐでも有あるやうに、救すくはうとする我々われ〳〵を嫉視しつしするのもある。 車室しやしつにはもう負傷者ふしやうしやの容いれ塲ばがなく、私逹わたしたちの着きてゐる服ふくまでグッチョリ血ちに濕ぬれて、[Pg 76]宛然さながら血雨けつうの中うちに立盡たちつくしてゐたやうになつたのに、まだ負傷者ふしやうしやを運はこんで來きて、蘇よみがへつたやうに見みえる野のは何時いつまでも物凄ものすごく蠢うごめき渡わたる。

 或者あるものは自分じぶんも這はひ寄より、或者あるものはふら〳〵として倒こけては起上おきあがり〳〵來くる。 中なかにも一人ひとり殆ほとんど走はしつて來きたのがあつた。 と、見みると、面かほはひしやげて、一ひとつ殘のこつた眼めばかりが物凄ものすごいすさまじい光ひかりを湛たゞへ湯上ゆあがりの人ひとのやうに、殆ほとんど一糸しをも着つけてゐない。 私わたしを衝退つきのけて、一ひとつ眼めでドクトルを探さがし出だし、呀あツといふ間まに無手むずと左手ゆんでに胸倉むなぐらを取とつて、

「うぬ…者面しやツつら打曲はりまげるぞ!」

 [Pg 77]と、かう一ひとつ喚わめいて置おいて、それから小突こづきながら、悠々ゆツたりと、其その癖くせ口汚くちぎたなく毒どくづく。

「貴樣きさまの面つらをグワンとやるのだ。 このド畜生ちくしやうめ!」

 ドクトルは振放ふりはなして、ヤツと立向たちむかひ、息いきを塞つまらせ〳〵罵のゝしつた。

「野郞やらう、軍法ぐんぱふ會議くわいぎに掛かけるぞ! 監倉かんさうだぞ! 人ひとの職務しよくむの邪魔じやましやがつて… この野郞やらう! この畜生ちくしやう!」

 中なかへ入はいつて引分ひきわけたが、引分ひきわけられても兵へいは尙なほ罵のゝしり止やまず、久しばらくは唯たゞ、

「こン畜生ちくしやう! 者面しやツつら打曲はりまげるぞ!」

 [Pg 78]とばかり。

 私わたしはもう耐たへられなくなつたから、一服ぷくして休やすまうと、片脇かたわきへ退のいた。 手首てくびの血のりはパサ〳〵に乾かはいて、黑くろ手袋てぶくろを穿はめたやうに、指ゆびもぎこちなく、マッチやシガレットをつい取落とりおとす。 斯やうやく喫のみ出だすと、烟草たばこの烟けむりも平常いつものやうにもなく變へんに見みえて、其その味あぢも全まつたく異かはつてゐる。 こんな烟草たばこは後あとにも前さきにも喫のんだ事ことがない。 其その時とき學生がくせいの看護手かんごしゆが側そばへ來きた。 一緒しよに汽車きしやに乗のつて來きた彼あの男をとこだのに、何なんだか數年すねん前ぜんに逢あつた人ひとのやうに思おもはれて、さて何處どこで逢あつたかゞ憶おもひ出だせない。 學生がくせいは直ひたと踵かゞとを地ちに着つけて[Pg 79]行進マーチの步調ほてうで步あるいて來きたが、私わたしの身體からだ越ごしに何處どこともなく遠とほくの空そらを眺ながめて、

「これだのに皆みんな寢ねてゐるのだ。」

 と何なんだか落着おちつき拂はら[Pg 80]つてゐる。 私わたしは自分じぶんの事ことのやうに憤然やつきとなつて、

「だつて、君きみ、十日とをかも獅子しゝのやうに奮鬪ふんとうしたのだもの、其その筈はずぢやないか?」

「これだのに皆みんな寢ねてゐるのだ。」

 と學生がくせいは私わたしの身體からだ越ごしに空そらを眺ながめながら、反覆くりかへしていつて、さて私わたしの面かほを覗のぞき込こむやうにして、人差指ひとさしゆびを鼻はなの先さきで揮ふり〳〵、矢張やツぱり膠にべもなく落着おちつき拂はらつた調子てうしで、

「能よく聽きいて置おきなさい、能よく。」

「何なにを?」

 學生がくせいは愈々いよ〳〵面かほを覗のぞき込こむで、理由わけありさうに人差指ひとさしゆびを揮ふり〳〵、辻褄つじつまの合あつた話はなしの積つもりらしく、矢張やツぱり一ひとつ事ことをいふ。

「能よく聽きいて置おきなさい、能よく。 皆みんなにも然さう言いつて貰もらひたいのだ。」

 佶きツと私わたしを見据みすゑたまゝ、も一度ど人差指ひとさしゆびを揮ふつて見みせて、ピストルを取出とりだすや、ドンと一發ぱつ我われと我わが顳顬こめかみへ擊込うちこんだ。 けれども私わたしは少すこしも驚おどろかず、平[Pg 81]氣へいきでシガレットを左ひだりの手てに持易もちかへて、指ゆびで其その創口きずぐちを觸さはつて見みて、汽車きしやの在ある方はうへ行つた。

「あの學生がくせいはピストルで自殺やりましたぞ。尤もつともまだ息いきはあるやうだが…」

 と私わたしがドクトルにいふと、ドクトルは私われと我わが頭あたまに武者振むしやぶり附ついて、唸うなるやうに、

「馬鹿ばかめ!… もう汽車きしやは一杯ぱいだ。 彼處あすこにも今いまに自殺やりさうなのが一人ひとり居ゐるのだ。 私わたしだつて然さうだ」、と忌々いま〳〵しさうに叱しかるやうに言いつて、「自殺やりかねない。 全まつたく! だから、貴方あなたは――步あるいて行いつて貰もらひませう。 もう載のせる餘裕せきがない。其それが不服ふゝくなら、吿[Pg 82]發こくはつなさい。」

 と喚わめき〳〵餘所よそを向むいて了しまつた。 今いまに自殺やりさうだといふ男をとこの側そばへ行いつて見みたら、それは看護手かんごしゆで矢張やツぱり學生がくせい出でらしかつた。 立たちながら車輛しやりやうの羽目はめへ額ひたへを押當おしあてゝ、肩かたで浪なみを打うたせて泣ないてゐる。

「泣なくな〳〵」、と私わたしは其その浪なみを打うつ肩かたへ手てを遣やつた。

 が、振向ふりむきもせず、返答へんたふもせず、泣ないてゐる。 看みると、頸窩ぼんのくぼが自殺じさつした學生がくせいのそれのやうに若々わか〳〵しく、矢張やツぱり無氣味ぶきびだ。 酔漢よひどれが汚むさい物ものでも吐はいてるやうに、意久地いくぢなく兩足りやうあしを踏擴ふみはだけてゐたが、首[Pg 83]筋くびすぢの血ちに塗まみれてゐたのは大方おほかた手てで抑おさへたからだらう。

「泣なくなと言いへば!」と私わたしは癇癪聲かんしやくごゑを振立ふりたてた。

 と、其その看護手かんごしゆは蹌踉よろ〳〵と車輛しやりやうを離はなれて、投首なげくびして、老人らうじんのやうに背せを圓まるくし、私逹わたしたちを棄すてゝ置おいて、何處どこともなく闇黑くらやみの中うちへ行ゆく。 何故なぜだか、私わたしも其その跟あとに隨ついて、汽車きしやを後あとにして、何處どこを目的めあてともなく、久しばらく二人ふたりで步あるいて行いつた。看護手かんごしゆは泣ないてゐるらしかつたが、私わたしも何なんだか佗わびしくなつて、泣出なきだし度たいやうな氣持きもちがする。

「一寸ちよツと待まて!」と大聲おほごゑに言いつて私わたしは立止たちどまつた。

 [Pg 84]が、看護手かんごしゆは背せを圓まるくして、重おもたさうな足取あしどりで行ゆく。 肩かたを窄すぼめて足あしを引摺ひきずり〳〵行ゆく姿すがたは、宛然さながらの老人らうじんだ。 軈やがて明あかるく見みえても照てりもせぬ薄紅うすあかい靄もやの中うちに其その姿すがたは消きえて、私わたし一人ひとりになつて了しまつた。

 左手ゆんでに遠とほく朦朧もうろうとして一連れんの火影ほかげが流ながれるやうに過すぎて行ゆく。 汽車きしやが戾もどつて行ゆくのだ。 私わたしは死しんだ者もの死しにかゝつた者ものの中なかに一人ひとり取殘とりのこされたのだが、死しんだ者もの死しにかゝつた者もので收容しうよう漏もれになつた者ものはまだ何位どのくらゐあつたか知しれぬ。 近ちかくは寂然しんとしてゴソリともいはぬけれど、離はなれては野のに魂たましひの有あるやうにザワ〳〵と蠢うごめく――と、さ、一人ひとりだから思おもはれた[Pg 85]のかも知しれぬ。 兎とも角かくも呻吟しんぎんの聲こゑは絕たえぬ。 子供こどもの泣なくやうな、夥多あまたの子犬こいぬが棄すてられて凍こゞえ死しなむとして啼なくやうな、繊細かぼそい、便たよりない聲こゑで地上ちじやう一面めんに擴ひろがつて、之これを聽きいて居ゐると、銳するどい〳〵際限はてしもない氷こほりの針はりを惱なうに突徹つきとほされて、そろり〳〵と拔差ぬきさしされるやうな氣持きもちがして…。

(斷篇第六)

 …それは味方みかたであつた。 最後さいごの一ケ月げつは命令めいれいも計畫けいくわくも齟齬くひちがひ、敵てきも味方みかたも行動かうどうが紛もつれ〳〵て妙めうな工合ぐあひであつたが、然さういふ中なかでも敵襲てきしふのある事ことは[Pg 86]豫期よきしてゐた。 敵てきといふのは即すなはち第だい四軍團ぐんだんである。 で、味方みかたは既すでに攻擊こうげき準備じゆんびを終をはつた時とき、誰たれだか雙眼鏡さうがんきやうで見みると、味方みかたの制服せいふくを着つけてゐるのが判然はつきり見みえると云いひ出だして、十分後ぷんごには其その疑うたがひが霽はれ、愈愈いよ〳〵味方みかたに違ちがひないとなると、皆みなホツとして嬉うれしく思おもつた。 先方さきもそれと心附こゝろづいた體ていで、悠々いう〳〵と近ちかづいて來くる。 その落着おちついた處ところに、相手あひても矢張やツぱり思掛おもひがけぬ邂逅であひを喜よろこんで微笑びせうしてゐる俤おもかげが浮ういて見みえる。

 で、敵てきが發砲はつぱうした時ときには、何なんの事ことだか暫しばらくは合點がてんが行ゆかずに、榴霰彈りうさんだんや銃丸じうぐわんが霰あられの如ごとく降ふり注そゝぎ[Pg 87]瞬またゝく間まに死傷者ししやうしやの山やまを築きづく中なかで、私逹わたしたちは矢張やツぱり莞爾莞爾にこ〳〵してゐた。 誰だれだか敵てきだと叫さけぶ。 敵てきと聞きくと、――私わたしは能よく覺おぼえてゐるが、――成程なるほど相手あひては敵てきで制服せいふくも敵てきの制服せいふく、味方みかたのとは違ちがふと、皆みな氣きが附ついた。 で、直すぐさま應戰おうせんする。 この變へんな戰鬪せんとうが始はじまつてから、十分ぷんも經たつた頃ころであらう、私わたしは兩足りやうあしを捥もがれて、氣きが附ついた時ときには、もう病舎びやうしやに居ゐて、手術しゆじゆつも濟すむだ後のちであつた。

 戰鬪せんとうの結果けつくわを人ひとに聽きいて見みると、皆みな取留とりとめぬ氣休きやすめばかり言いつてゐるが、察さつする所ところ敗北はいぼくしたに違ちがひない。 それにしても、斯かうなれば私わたしはもう後送こうそう[Pg 88]される、兎とも角かくも命いのちを繫つなぎ留とめた、壽命じゆみやうの有あらむ限かぎり長生ながいきが出來できる、と思おもふと、足あし無なしの身みにも嬉うれしかつた。 が、一週後しうごに漸やうやく詳くはしい事ことが分わかると、又また胡亂うろんになつて、曾かつて覺おぼえぬ奇異きいな恐怖きようふを更さらに心こゝろに懷いだくやうになつた。

 矢張やツぱり味方みかたであつたらしい。 味方みかたが味方みかたの砲はうで擊出うちだした味方みかたの破裂彈はれつだんで私わたしは足あしを捥もがれたのだ。 如何どうして此樣こんな間違まちがひをしたのか、誰だれにも分わからぬ。 何なんだか妙めうな事ことになつて如何どうしてか目めが眩くらむで、同おなじ軍ぐんに屬ぞくする二個この聯隊れんたいが一ウエルストを隔へだてゝ相對あひたいして、相手あひては敵てきと十分ぶんに思込おもひこみながら、丸まる一時[Pg 89]間じかんも同志打どしうちしてゐたのだ。 皆みな成なるたけ其その噂うはさをするのを避さけて、すれば曖昧あいまいの事ことばかり言いふ。 何なによりも不思議ふしぎなのは、その噂うはさをしても、大抵たいていは今いまだに同志打どしうちとは思おもつてゐない。 いや、寧むしろ同志打どしうちは認みとめる、唯たゞ最初さいしよから同志打どしうちしたのでない、最初さいしよは實際じつさい敵てきを相手あひてにしてゐたのだが、全戰線ぜんせん〳〵の紛糾こぐらかつた紛まぎれに、其その敵てきは何處どこへか消きえて、我々われ〳〵は遂つひに味方みかたの彈丸たまを被かぶつたのだ、と思おもつてゐる。 中なかには隱かくさず然さうと明言めいげんして、事實じゞつだと思おもひ、事實じゞつらしいと思おもふ程ほどの事ことを列ならべて、具つぶさに其その次第しだいを語かたる者ものもある。 私わたしも如何どうして此樣こんな間違まちがひが起おこつたのか、今いまに[Pg 90]なつてもまだ確乎しかとした事ことが言いへぬ。 最初さいしよ見みた時ときには我軍わがぐんの赤線あかすぢ入いりの軍服ぐんぷくに紛まぎれなかつたのが、其後そのゝち見みたら確たしかに黃筋きすぢの敵てきの軍服ぐんぷくになつてゐたのだ。 唯たゞ如何どうしてか間まもなく皆みな此この間違まちがひを忘わすれて、眞しんに敵てきと鬪たゝかつたやうに思込おもひこんで了しまつたから、僞いつはる氣きもなく其その通とほりを通信つうしんに書かいて送おくった者ものが多おほい。 それは歸國後きこくごに私わたしも讀よんで知しつてゐる。 で、最初さいしよは此この時とき負傷ふしやうした我々われ〳〵に向むかふと、世間せけんの人ひとの樣子やうすが少すこし妙めうで、何なんとなく他たの負傷者ふしやうしや程ほどに同情どうじやうを寄よせて吳くれぬらしかつたが、其その區別わけへだても直ぢき消きえて了しまつた。 唯たゞ之これに類るゐした事ことが其後そのごも有あつたし、又また實際じつさい敵方てきがたにも某隊ぼうたいと[Pg 91]某隊ぼうたいとが夜中やちう同志打どしうちをして殆ほとんど全滅ぜんめつしたといふ事實じゞつも有あつて見みれば、我々われ〳〵も矢張やツぱり間違まちがつて同志打どしうちしたといふに不思議ふしぎはないと思おもふ。

 私わたしの手術しゆじゆつを受うけたドクトルはヨードホルムや烟草たばこの烟けむりや石炭酸せきたんさんの香にほひのする、いつ見みても黃味きみを帶おびた白しろい斑髭まだらひげの中なかで莞爾莞爾にこ〳〵してゐる、乾枯ひからびたやうな骨張ほねばつた老人らうじんであつたが、眼めを細ほそくして云いふには、

「貴方あなたは其中そのうち後送こうそうされやうが、仕合しあはせな事ことだ。 どうも何なんだか變へんな鹽梅あんばいですからな。」

「如何どうしてゞす?」

[Pg 92]「如何どうしてといふ事こともないが、どうも變へんな鹽梅あんばいですわい。 私逹わたしたちの行やつた時分じぶんには此樣こんなに拗こじれた事ことはなかつた。」

 二十餘年よねん前ぜん最後さいごの歐洲おうしう戰役せんえきに從軍じうぐんした人ひとで、能よく其頃そのころの噂うはさをしては得意とくいになる。 が、今度こんどの戰爭せんさうは理由わけが分わからぬとか云いつて、始終しじゆう懸念けねんさうな樣子やうすでゐるのだ。

「どうも變へんですわい、」と溜息ためいきをして、顏かほを顰しかめて烟草たばこの烟けむりの中なかに雲隱くもがくれをしたが、「成ならう事ことなら、私わたしも歸かへりたい。」

 と、人ひとの面かほを覗のぞき込こむやうにして、黃きいろい烟脂やに[Pg 93]だらけの髭越ひげごしに、

「ま、見みてゐて御覽ごらん、今いまに大變たいへんな事ことになつて、一人ひとりだつて生いきちや環かへれなくなるから。 私わたし始はじめ皆みな討やられる。」

 と老眼らうがんを私わたしの面かほ近ちかくに据すゑて、此人このひとも矢張やツぱりキョトンとする。 之これを觀みると、百千の建物たてものが一時じに崩くづれ懸かゝつた程ほど、私わたしは堪たまらなく恐おそろしくなつて、慄然ぞツとして、小聲こゞゑで、

「赤あかい笑わらひだ。」

 此この意味いみの分わかつたのは此人このひとが始はじめてゞあつた。 急きふに首肯うなづいて、

[Pg 94]「全まつたくだ。 赤あかい笑わらひだ。」

 で、直ひたと私わたしに寄添よりそつて、きよろ〳〵しながら年寄としよりの癖くせとして諒々くど〴〵と囁さゝやくのだが、囁さゝやく度たびに先窄さきすぼまりの半白ごましほの頰髯ほゝひげが搖うごく。

「貴方あなたは直ぢき後送こうそうされるのだから、お話はなしするが、何なんですか、貴方あなたは瘋癲ふうてん病院びやうゐんで狂人きちがひが喧嘩けんくわをするのを見みた事ことが有ありますか? 無ない? 私わたしは有ある。 喧嘩けんくわをする所ところは矢張やツぱり無病むびやうの人ひとのやうだ。 ね、無病むびやうの人ひとのやうだ。」

 と幾度いくたびか理由わけありさうに此この文句もんくを反覆くりかへす。

「で、如何どうしたといふのです?」

 [Pg 95]と私わたしも矢張やつぱり恟々きよと〳〵しながら聲こゑを竊ひそめて聞きくと、

「如何どうしたといふのでもないが、矢張やつぱり無病むびやうの人ひとのやうだ。」

「赤あかい笑わらひだ。」

「水みづを打掛ぶつかけて引分ひきわけるのです。」

 雨あめに度肝どぎもを拔ぬかれた事ことを憶出おもひだして、私わたしは癪しやくに觸さはつたから、

「貴方あなたは氣きが狂くるつたンだ!」

「が、貴方あなた以上いじやうぢやない。 要えうするに、以上いじやうぢやない。」

 と、尖とがつた老おいの膝ひざを抱だいて、ヒゝと笑わらつた。 こ[Pg 96]の厭いやな意外いぐわいな笑聲わらひごゑの名殘なごりを、ばさ〳〵に乾かはいた唇くちびるにまだ留とゞめたまゝ、肩越かたごしに人ひとの面かほを尻眼しりめに掛かけて、幾度いくたびか擽くすぐつたい目交めまぜをする。 何なにか恐おそろしく可笑をかしな事ことがあるが、それを知しつてゐる者ものは二人ふたり切ぎりで外ほかには誰たれも知しり手てが無ないと云いつた調子てうしだ。 それから魔術師まじゆつしが手品てじなを使つかふやうに、大業おほげふに高々たか〴〵と手てを擧あげて、スウと輕かろく其それを卸おろして、窃そツと二本ほん指ゆびで夜着よぎの、切斷せつだんしなかつたら私わたしの足あしの在あるべき所ところを抑おさへて、

「この意味いみが分わかりますか?」

 とひそ〳〵と聞きく。 更さらに又また大業おほげふに理由わけ有ありさう[Pg 97]に負傷者ふしやうしやが幾側いくかはかに分わかれて寢臺ねだいに臥ねてゐるのを指さして、また、

「この意味いみが說明せつめい出來できますか?」

「負傷者ふしやうしやでさ。」

「負傷者ふしやうしや」、と反響はんきやうのやうに反覆くりかへして、「足あしもない、腕うでもない、腹はらには風穴かざあなを明あけられて、胸むねを微塵みじんに碎くだかれて、眼球がんきうを抉ゑぐり取とられてゐる――この意味いみが分わかつてゐるのですな? 宜よろしい。 ぢや、この意味いみも分わかるでせう?」

 と手てを突ついて、年齡としに似合にあはず飜然ひらりと身輕みがるに逆立さかだちをして、足あしで釣合つりあひを取とつてゐる。 白しろの治療服ちれうふくは[Pg 98]捲まくれて、面かほは眞紅まつかに充血じうけつしたが、逆さかになつた變へんな目色めつきで、喰入くひいるやうに凝ぢつと私わたしの面かほを視みながら、辛やつと、途切とぎれ〳〵に、

「この意味いみも…矢張やつぱり…分わかりますか?」

「もう好加減いゝかげんになさい。 止よさんと、僕ぼくは聲こゑを立たてるから。」

 と私わたしは怯おびえた小聲こゞゑで云いつた。

 ドクトルは飜然ひらりと足あしを卸おろして、自然しぜんの位置ゐちに復ふくし、更さらに私わたしの寢臺ねだいの側そばに坐すわつて、フウと息いきをしながら、我われ一人ひとり心得顏こゝろえがほに、

「誰だれにも此この意味いみが分わからない。」

[Pg 99]「昨日きのふ又また砲戰はうせんが有あつたさうですな?」

「有ありました。 一昨日をとゝひも有あつた、」とドクトルは其通そのとほりといふ意こゝろを頷うなづいて示みせる。

 私わたしは欝々くさ〳〵して、

「あゝ、歸かへりたい! ね、ドクトル、私わたしはもう歸かへりたい。 到底とても此樣こんな處とこにや居ゐられん。 もう私わたしにや樂たのしい家庭かていが有あるとも思おもへなくなりさうだ。」

 ドクトルは何なにか考かんがへて居ゐて返答へんたふをしなかつた。 で、私わたしは泣出なきだした。

「あゝ、私わたしには足あしが無ない。 彼樣あんなに自轉車じてんしやに乗のつたり、步あるいたり、駈かけたりするのが好すきだつたが、[Pg 100]もう足あしが無ない。 右みぎの膝ひざへ坊ばうを載のつけて搖ゆすぶると、坊ばうは能よく笑わらつたツけが、もう此樣こんなに成なつちや…あゝ實じつに酷ひどい奴等やつらだ! これぢや歸かへつたつて、仕方しかたがない。 まだ僅たつた三十だのに… 實じつに酷ひどい奴等やつらだ!」

 と懷なつかしい足あし、早はやい逹者たつしやな足あしを偲しのんで、私わたしは直泣ひたなきに泣ないた。 誰だれが人ひとの足あしを持もつて行いつた、如何いかなる權利けんりが有あつて持もつて行いつた!ドクトルは餘所よそを見みながら、

「斯かういふ事ことがある。 昨日きのふ見みてゐたら、氣違きちがひの兵へいが此方こつちの陣地ぢんちへ紛まぎれ込こんで來きた。 敵てきの兵へいなんで[Pg 101]す。 殆ほとんど丸裸まるはだかで、散々さん〴〵打ぶちのめされて來きた樣子やうすで、引搔傷ひツかききずだらけだ。 宿無やどなし犬いぬか何なんぞのやうにガツ〳〵してゐる。 頭髮かみや髯ひげが蓬々ぼう〳〵と生はえて、尤もつともこれはお互たがひの事ことだが、野蠻人やばんじんか、此世このよ開ひらけたての人間にんげんか、乃至ないし猿さるかといつたやうな奴やつだ。 手てを揮ふるやら、身みを揉もむやら、歌うたを唱うたつたり、大聲おほごゑに喚わめいたりして、兎角とかく喧嘩けんくわを賣うりたがる。 で、物ものを喰くはしてから、元もとの野原のはらへ逐返おひかへして了しまつたが、こんな連中れんちうは然さうでもする外ほか仕方しかたがないですからな。 あゝいふ連中れんちうだ、每日まいにち每晚まいばんぼろ〳〵した薄氣味うすきみの惡わるい幽靈いうれいのやうな風ふうをして、山やまの中なかを彷徨うろつき廻まはるのは。 雨風あめかぜに[Pg 102]曝さらされ放題はうだい曝さらされて、道みちも無ない處ところを宛あてもなく往いつたり來きたりして、手てを揮ふる、笑わらふ、喚わめく、歌うたう。 こんなのが二人ふたり出遭であへば喧嘩けんくわをする――それとも出遭であつても氣きが附つかずに行違いきちがつて了しまふかも知しれんが。 一體たい何なにを喰くつて生いきてるのか分わからん。 恐おそらく何なにも喰くはずに居ゐるのぢやないかと思おもはれるが、若もし何なにか喰くつてゐるなら、死骸しがいだ、――每晚まいばん夜よツぴて山やまで咬合かみあつて唁々きやん〳〵吠立ほえたてる、あの喰くらひ太ふとつた野良犬のらいぬと一緖しょになつて、死骸しがいを喰くつてるのだ。 每晚まいばん、嵐あらしに目めを覺さました鳥とりか、醜みつともない恰好かつかうをした蛾がのやうに、火ひに集たかつて來くる。 寒さむさ凌しのぎに篝かゞりでも焚たけば、[Pg 103]三十分ぷんと經たたぬ中うちに、ぼろ〳〵した風ふうの、凄すごい、凍かじけ猿ざるのやうな奴やつがガヤ〳〵と寄よつて來くる。 敵てきかと思おもつて其それに發砲はつぱうすることもあるが、時ときとしては其奴等そいつらが譯わけも分わからん事ことをワイ〳〵いふその聲こゑに脅おびやかされるので、肝癪かんしやくを起おこして故意わざと遣付やつつける事こともある…」

「あゝ、歸かへりたい!」と私わたしは大聲おほごゑに言いつて耳みゝを塞ふさいだが、凄すごい話はなしが綿わたを隔へだてゝ聞きくやうに、物ものに籠こもつて隱々いん〳〵と、散々さん〴〵惱なやまされた惱髓なうずゐに更さらに響ひゞいて來くる。

「かういふ連中れんちうは大分だいぶ居ゐる。 或あるひは谷底たにぞこに落おちたり、[Pg 104]或あるひは正氣しやうきの健全けんぜんな人ひとの爲ために設まうけた狼穽らうせいに陷おちいつたり、或あるひは戰塲せんぢやうに取殘とりのこされた鐵條網てつでうまうの齒はや杭くひの先さきに引掛ひつかゝつたりして、一度どに何百なんびやくとなく死しぬ。 進退しんたいに方はうのある正氣しやうきの戰鬪せんとうに紛まぎれ込こむで、いつも先頭せんとうに立たつて奮鬪ふんとうする所ところは、如何いかにも勇士ゆうしのやうだが、其代そのかはり味方みかたに刄向はむかふことも珍めづらしくない。 私わたしは此この連中れんちうが氣いに入いつた。 私わたしも今いまは唯たゞ氣きが違ちがひかゝつてゐるばかりだから、斯かうして坐すわつて貴方あなたと話はなしをしてゐるのだが、これで全然すつかり狂くるつたとなると、私わたしは野のへ出でますな。 野のへ出でて大おほいに叫さけぶ。 大おほいに叫さけんで其この勇敢ゆうかんな可怕おそろしいといふことを知しらぬ武士逹ぶしたちを集あつめて、[Pg 105]而さうして全世界ぜんせかいに向むかつて宣戰せん〳〵する。 樂隊がくたいを先さきに立たてて、軍歌ぐんかを唱うたつて、欣〻きん〳〵として町まちや村むらへ乗込のりこむ。 我々われ〳〵の足跡そくせき到いたる處ところ盡こと〴〵く眞紅まつかになる、總すべての物ものが火輪くわりんの如ごとく輪わを舞まつて踊をどりををどる。 生殘いきのこつた者ものが馳加はせくはゝつて、我わが精銳せいえいは雪崩なだれのやうに進すゝめば進すゝむ程ほど人數にんずうが增まして、而さうして遂つひに此この世界せかいを一掃さうするのだ。 何なんだと? 人ひとを殺ころしてはならん? 民家みんかを焚やくな?掠奪りやくだつするな? 誰だれが其樣そんな事ことをいふ?」

 と狂くるつたドクトルはもう絕叫ぜつきうするのであつた。 胸部けうぶ腹部ふくぶを擊碎うちくだかれた者もの、眼球がんきうを抉ゑぐり出だされた者もの、乃至ないし足あしを切斷せつだんされた者ものの、今迄いまゝで眠ねむつてゐたやうな[Pg 106]創きずの傷いたみが、此この絕叫ぜつきうの聲こゑに呼覺よびさまされて疼うづき出だす。 幅はゞのある、鍋底なべぞこでも搔かくやうな、泣なくやうな唸聲うなりごゑが病舎内びやうしやないに充みち渡わたつて、靑あをい、黃きいろい、疲つかれ切きつた、或あるひは眼めの無ない、或あるひは地獄ぢごく戾もどりかと思おもはれる程ほど痛したゝか形かたちを損そんじた人ひとの面かほが八方ぱうから此方こちらを向むく。 此等これらが呻うめきつゝ耳みゝを傾かたむける外ほかには、開放あけツぱなしの戶口とぐちから漠々ばく〳〵と此世このよを掩おほふ眞黑まつくろな暗黑やみが窃そつと内うちを覗のぞき込こむ。 氣きの狂くるつた老人らうじんは兩手りやうてを伸のべて更さらに絕叫ぜつきうした、

「誰だれが其樣そんな事ことを言いふ? 何なんの、我々われ〳〵は敢あへて殺ころす、敢あへて焚やく、掠奪りやくだつする。 我々われ〳〵は屈托くつたくの無ない愉快ゆくわいな勇士ゆうしの群むれだ。 敵てきの建物たてものでも、大學だいがくでも、博物館はくつぶくわんでも、[Pg 107]手當てあたり次第しだいに破壞はくわいする。而さうして其その破壞はくわいの跡あとで、火ひの笑わらひに充みちた浮うかれ軍士ぐんしの我々われ〳〵が踊をどりををどるのだ。 瘋癲ふうてん病院びやうゐんを我々われ〳〵の本國ほんごくと稱しようしてからに、まだ氣きの狂くるはぬ奴等やつらを我敵わがてきと認みとめ、あべこべに之これを狂人きやうじんと呼よぶのだ。 而さうして百戰せん百勝しようの、いつも悅喜滿面えつきまんめんの英雄えいゆうの此方このはうが一天てん萬乗ばんじようの君きみとして此この世界せかいに臨のぞむ時とき、如何いかにも心こゝろゆくばかりの笑聲わらひごゑが天地てんちの間あひだに轟とゞろき渡わたるのだ!」

「それが赤あかい笑わらひだ!」と私わたしは大聲おほごゑ出だしてドクトルの話はなしを奪とつて、「助たすけて吳くれェ! また赤あかい笑聲わらひごゑが聞きこえる!」

[Pg 108]「諸君しよくん!」とドクトルは不具かたはの幽靈いうれいが呻聲うなりごゑを揚あげてゐるやうな人逹ひとたちに向むかつて、「諸君しよくん! 頓やがて我々われ〳〵の世よとなれば、月つきも赤あかくなる、日ひも赤あかくなる、毛物けものの毛けも赤あかい愉快ゆくわいな毛けとなる。 餘あまり白しろいと、餘あまり白しろいとな、それ、その皮かはを引剝ひンむいでやらうといふものだ… 諸君しよくんは血ちを飮のむだことが有あるか? 血ちは少すこし黏々ねば〳〵する物ものだ、少すこし生溫なまあたゝかな物ものだ、其代そのかはり眞紅まつかな物ものだ。 而さうして血ちが笑わらふと、眞紅まつかな愉快ゆくわいな笑聲わらひごゑが聞きこえる!…

(斷篇第七)

 [Pg 109]ひどい! 亂暴らんばうな事ことをする。 赤十字せきじふじは神聖しんせいで、世界せかい何いづれの國民こくみんも之これに對むかつて敬意けいいを拂はらはん者ものはない。 何なにも兵へいを載のせては居ゐまいし、何なんの手出てだしも出來できぬ負傷者ふしやうしやの乗のつた列車れつしやという事ことは敵てきも承知しようちなら、地雷ぢらいを伏ふせてある事ことは警告けいこくすべき筈はずでないか? 可哀かわいさうに旣もう皆みな故鄉こきやうの夢ゆめを見みてゐたらうに…

(斷篇第八)

 …中央ちうあうに湯沸ゆわかし、正銘しやうめい紛まぎれのない湯沸ゆわかし、それが湯氣ゆげを噴ふく所ところは機關車きくわんしやのやうだ。 ひどい湯氣ゆげでランプのホヤまで少すこし曇くもつた位くらゐで、茶碗ちやわんも矢張やはり昔むか[Pg 110]しながらの、外そとは藍色あゐいろの、中なかは白しろい、中々なか〳〵見事みごとな茶碗ちやわんで、結婚けつこんの時ときの貰もらひ物ものだ。 贈おくり主ぬしは妻さいの姉妹きやうだいだが、氣立きだての好いい立派りつぱな婦人ふじんだ。

「皆みなまだ滿足まんぞくでゐるかい?」と奇麗きれいな銀製ぎんせいの匙さぢで茶碗ちやわんの砂糖さとうを搔廻かきまはしながら、私わたしが心元こゝろもとなさゝうに聞きくと、

「あの、一ひとつ壞こはれましたの」、と妻さいは何氣なにげなく答こたへた。 妻さいは此時このとき湯沸ゆわかしの龍頭りうづを捻ねぢつてゐたが、湯ゆが見事みごとにスウと迸ほとばしる。

 私わたしは高笑たかわらひをした。

 弟をとうとが、

[Pg 111]「何なにが可笑をかしいのです?」

「なに、何なんでもない。 それよりか、最もう一度ど書齋しよさいへ連つれてツて吳くれ。 何なにも勇士ゆうしの爲ためだ、面倒めんだう見みて吳くれ! 留守中るすちう樂らくをしてゐたらうが、もう駄目だめだぞ。 これからは己おれがウンと使つかつてやる。 」で、無論むろん常談じやうだんに、友ともよ、急いそがむ、戰たゝかひに、勇いさみて敵てきに急いそがむ…と歌うたひ出だした。

 皆みな私わたしの意こゝろを悟さとつて微笑びせうしたが、妻さいだけは俯向うつむいて繍ぬひとりの有ある奇麗きれいな布巾ふきんで茶碗ちやわんを拭ふいてゐた。 書齋しよさいへ行ゆくと、水色みづいろの壁紙かべがみや、靑あをい笠かさを被かぶつたランプや、水差みづさしの乗のつた小ちひさなテーブルが又また目めに付つく。 [Pg 112]水差みづさしは少すこし塵ちりに汚よごれてゐた。

 私わたしは浮立うきたつて、

「あの水差みづさしの水みづを少すこし…」

「今いま飮のむだばかりぢや有ありませんか。」

「まあ、好いい、注ついで吳くれ。 それから、お前まへな」、と妻さいに向むかつて、「坊ばうを連つれて少すこし次つぎの間まへ行いつてゝ吳くれんか。 賴たのむ。」

 で、私わたしはグビリ〳〵と、樂たのしみながら、水みづを飮のむだ。 次つぎの間まには妻さいと坊ばうが居ゐるのだが、姿すがたは見みえない。

「もう宜よろしい。 さあ、此方こツちへお出いで。 だが、もう[Pg 113]晚おそいのに何故なぜ坊ばうは寢ねないのだ?」

「お歸かへンなすつたのが嬉うれしいのですよ。 坊ばうや、お父とうさんの側そばへお出いで。」

 しかし坊ばうは泣出なきだして母はゝの裾すそに隱かくれた。

「何故なぜ坊ばうは泣なくのだらう?」と私わたしはうろ〳〵と視廻みまはして、「一體いつたいお前逹まへたちは何故なぜ其樣そんな蒼あをい面かほをして默だまつてるのだ? 影法師かげぼふしのやうに、始終しゞう人ひとの跟あとにばかり隨ついて來くる…」

 弟おとうとは高笑たかわらひをして、

「默だまつてやしません。」

 妹いもうとも合槌あひづちを打うつて、

[Pg 114]「お饒舌しやべりの仕通しどほしよ。」

「どれ、私わたしはお夜食やしよくの仕度したくに掛かゝらう」、と母はゝは倉皇そゝくさと出でて行いつた。

「いや、默だまつてゐる」、と私わたしはふツと其それに相違さうゐないと思込おもひこむで、「朝あさから一言ひとことだつてお前逹まへたちの物ものを言いふのを聞きいた事ことがない。 己おればかり饒舌しやべつたり、笑わらつたりして喜よろこんでるのだ。 己おれが歸かへつて來きても喜よろこんで吳くれんのか? 何故なぜ皆みな成なる丈たけ己おれの顏かほを見みぬやうにするのだ? 己おれは其樣そんなに變かはつたか? そりや變かはりもしたらうが…鏡かゞみが一ひとつも見みえんぢやないか? 皆みな片付かたづけて了しまつたのか? 鏡かゞみを持もつて來きて吳くれ。」

[Pg 115]「は、今いま直すぐ持もつて參まゐりますよ」、と妻さいはいつて、出でて行いつたぎり中々なか〳〵戾もどらんで、鏡かゞみは小間使こまづかひが持もつて來きた。 面かほを映うつして見みると、汽車きしやに乗のつてゐた時とき停車塲ていしやぢやうに居ゐた時ときの矢張やはりあの面かほで、少すこし老ふけたやうだが、格別かくべつ變かはつた事こともない。

「些ちつとも變かはつてやせんぢやないか?」

 と澄すましていふと、傍そばの者ものは大層たいそう喜よろこんだ。 何故なぜだか皆みな私わたしが大聲おほごゑを立たてゝ氣絕きぜつでもしさうに思おもつてゐたらしい。

 妹いもうとの笑聲わらひごゑは段々だん〳〵高たかくなつて、狼狽あわてゝ出でて行いつて了しまつたが、弟おとうとは狼狽らうばいした樣子やうすもなく、落着拂おちつきはらつ[Pg 116]て、

「さう、そんなに變かはつちやゐません。 たゞ少すこし禿はげたばかりで。」

「首くびが滿足まんぞくに附ついてるのが見付みつけ物ものだと思おもはなきやならん」、と私わたしは平氣へいきで答こたへて、「それはさうと、皆みな何處どこへ行いつたのだらう――一人ひとり起たち二人ふたり起たちして。 お前まへもう少すこし家うちの中うちを引張ひツぱり廻まはして吳くれんか。 實じつに此この椅子ゐすは便利べんりだ。 全まるで音おとがせん。 幾いくら出だした?己おれも旣もう斯かうなりや仕方しかたがない、金かねに糸目いとめを附つけんで此樣こんな義足ぎそくを買かはう、もツと好いいのを…や、自轉車じてんしやが!…」

 [Pg 117]壁かべに掛かゝつてゐる。 空氣くうきが拔ぬいてあるから、護謨輪ごむわは萎しなびてゐたが、まだ眞新まツたらしだ。 後輪あとわの護謨ごむに少すこし泥どろが干乾ひからびて附ついてるのは一番いちばん最後しまひに乗のつた時ときの泥どろだ。 弟おとうとは默だまつて椅子ゐすを推おすのを止やめてゐた。 私わたしには其その默だまつてゐる意こゝろも立止たちどまつてゐる意こゝろも讀よめたから、不機嫌ふきげんな面かほをして、

「己おれの方はうの聯隊れんたいで生殘いきのこつた將校しやうかうは四人よにん外ほかない。 己おれは非常ひじやうに幸運かううんだ…自轉車じてんしやはお前まへに與やらう。 明日あすになつたら、お前まへの部屋へやへ持もつてつとくが好いい。」

「さうですか。 ぢや、貰もらつときませう」、と弟おとうとは素直すなほに言いふ事ことを聽きいて、「さうですとも、兄にいさんは幸[Pg 118]運かううんだ。 市内しないでも人口じんこうの半分はんぶんは忌中きちうの人ひとだそうですからな。 そりや足あしは何なんだけれど…」

「さうとも。 己おれは郵便配逹いうびんはいたつぢやなしな。」

 弟おとうとはふと立止たちどまつて、

「如何どうしたんです? 首くびが大層たいそう震ふるへるぢや有ありませんか?」

「なに、何なんでもない。 直ぢき癒なほつ了ちまふ、醫者いしやも然さう言いつてゐた。」

「手ても震ふるへますな?」

「う、手ても震ふるへる。 なに、直ぢき癒なほつ了ちまふ。 まあ、推おして吳くれ。 一ひとツ處ところに居をると饜あきて不好いかん。」

 [Pg 119]家内かないの者ものが皆みな佛頂面ぶつちやうづらをしてゐるので、私わたしも不愉快ふゆくわいでならなかつたが、でも床とこを敷とる段だんになると、又また嬉うれしくなつて來きた。 結構けつこうな寢臺ねだいだ。 四年前よねんぜん結婚けつこん間際まぎはに買かつた寢臺ねだいの上うへに本式ほんしきの床とこを敷とつて吳くれる。 淸きよいシーツを敷しいて、それから枕まくらを据すゑて、夜着よぎを被かける――その事々こと〴〵しい爲體ていたらくを見みてゐると、可笑をかしくて泪なみだが零こぼれる。

 妻さいに對むかつて、

「さ、着物きものを脫ぬがせて吳くれ。 それから臥ねかすのだ。 あゝ、好いい心持こゝろもちだ!」

「は、只今たゞいま。」

「早はやく!」

「は、只今たゞいま。」

[Pg 120]「如何どうしたンだ?」

「は、只今たゞいま。」

 妻さいは私わたしの背後うしろの化粧臺けしやうだいの側そばに立たつてゐた。 其方そのはうを振向ふりむいて見みやうとしたけれど、叶かなはない。 と、不意ふいに妻さいが大おほきな聲こゑで叫さけんだ。 此樣こんなな聲こゑは戰塲せんぢやうでなければ出でないといふ程ほどの大おほきな聲こゑで叫さけんだ、

「情なさけないぢや有ありませんか!」

 而さうして私わたしに飛付とびついたまゝ、其處そこへ倒たふれて、有ありもせぬ私わたしの膝ひざへ面かほを埋うづめやうとして、慄然ぞツとしたや[Pg 121]うに身みを引ひいて、又また縋すがり付ついて、少すこしばかり殘のこつた腿もゝに接吻せつぷんしながら、泣なきながら、

「あんな滿足まんぞくな身體からだだつたのに!…まだ三十ぢや有ありませんか。 若わかい立派りツぱな方かただつたのに、此樣こんなになつて了しまつて、情なさけないぢや有ありませんか! 本當ほんたうに殘酷ざんこくな人逹ひとたちだ。 貴方あなたを此樣こんなにすれば、何處どこが好いいのでせう? 何なんの必要ひつえうが有あつたのでせう? 優やさしい貴郞あなたを此樣こんな姿すがたにして了しまつて…私わたしももうもう情なさけなくツて…」

 此この泣聲なきごゑを聞付きゝつけて皆みな駈かけて來きた。 母はゝも、妹いもうとも、乳母うばも皆みな駈付かけつけて來きて、皆みな泣ないた、何なんだか言いつて、[Pg 122]私わたしの足あしの處ところに轉ころがつて、皆みな大泣おほなきに泣ないた。 弟おとうとは部屋へやの入口いりぐちに蒼白あをじろい面かほをして立たつてゐたが、是これも頤あごをわな〳〵顫ふるはせて、金切かなきり聲ごゑを振絞ふりしぼつて、

「其樣そんなに泣なかれると、私わたしも氣違きちがひになりさうだ――氣違きちがひに!」

 母はゝは母はゝで私わたしの椅子ゐすの側そばにひれ伏ふしてゐたが、もう大おほきな聲こゑも出でないと見みえて、纔わづかに皺嗄しやがれ聲ごゑを立たてゝ、頭あたまを車輪しやりんに打當うちあて〳〵泣ないてゐた。 で、其處そこに枕まくらを据すゑて夜着よぎを掛かけた淸潔きれいな寢臺ねだいが見みえる。 四年前よねんぜん結婚けつこん間際まぎはに買かつた寢臺ねだいだ…

[Pg 123]

(斷篇第九)

 …私わたしは湯槽ゆぶねに涵つかつてゐた。 弟おとうとは起たつたり、居ゐたり。 タオルや石鹼しやぼんを取上とりあげて、近々ちか〴〵と近視眼ちかめの側そばへ持もつて行いつたり、又また舊もとへ戾もどしたりして、狹せまい部屋へやの中なかでまご〳〵してゐたが、頓やがて壁かべに對むかつて、指先ゆびさきで壁土かべつちを弄せゝりながら、

「ま、考かんがへて御覽ごらんなさい。 數すう十年ねん數すう百年ねんの間あひだ、慈悲じひだの、分別ぶんべつだの、論理ろんりだのといふ事ことを敎をしへ込こんで、人ひとに意識いしきを與あたへた以上いじやうは、――何なにはさて措おいて、意識いしきを與あたへた以上いじやうはですな、其丈それだけの應報おうはうが屹[Pg 124]度きつと無なけりやならん。 そりや殘忍ざんにんになれんではない。 無感覺むかんかくになつて、血ちを見みても、淚なみだを見みても、人ひとの苦くるしむのを見みても、平氣へいきでゐるやうに、爲ならうとすればなれる。 例たとえば、牛うしや豚ぶたの屠殺者とさつしや、或種あるしゆの醫者いしや、或あるひは軍人ぐんじんなぞが其それでさ。 が、しかし、一旦たん眞理しんりを認識にんしきした者ものが眞理しんりを棄すてゝ了しまふ事ことが出來できるでせうか? 私わたしは出來できんと思おもふ。 子供こどもの時ときから動物どうぶつを苦くるしめるな、情なさけを知しれ、と敎をしへられてゐるのです。 讀よんだ書物しよもつといふ書物しよもつには皆みな然さう書かいてあるのです。 だから今度こんどの戰爭せんさうに惱なやまされる人ひとを見みると、私わたしは氣きの毒どくで〳〵耐たまらない。 私わたしは戰爭せんさうを呪咀じゆそ[Pg 125]する。 が、段々だん〳〵日數ひかずの經たつに隨つれ、人ひとの死しぬのや、苦くるしむだり血ちを流ながしたりするのが珍めづらしくなくなつて來くると、不斷ふだんは感覺かんかくが鈍にぶつたやうな、道義心だうぎしんが麻痺まひしたやうな鹽梅あんばいで、餘程よほど何なにか强つよい刺戟しげきでも受うけなきや、胸むねに應こたへない。 が、それでも、戰爭せんさう其物そのものとは如何どうしても折合をりあふ事ことが出來できん。 元來ぐわんらいが沒常識ぼつじやうしきの事ことを理解りかいする――そんな事ことは私わたしの頭あたまでは出來できない。 百萬まんの人ひとが一所ひとところに集あつまつて、一々法はふに依よつて進退しんたいして命いのちを取合とりあふ、而さうして皆みな同おなじやうに苦くるしい思おもひをして、同おなじやうに不幸ふかうな身みの上うへになる、――それに何なんの意味いみが有あります? 全まるで狂人きちがひの所[Pg 126]爲しよゐぢや有ありませんか?」

 と弟おとうとは此方こちらを振向ふりむいて、近視きんしの、少すこし愛度氣あどけない眼めで、返答へんたふでも催促さいそくするやうに、凝ぢツと私わたしの面かほを視みた。

「赤あかい笑わらひさ」、と私わたしは快活くわいくわつに言いつて、ボシャリ〳〵とやつてゐた。

「實じつはね」、と弟おとうとは親したしらしく冷つめたい手てを私わたしの肩かたへ載のせると、素肌すはだで濡ぬれてゐたので、吃驚びつくりしたやうに、手てを引込ひつこめて、「實じつはね、私わたしはどうも氣違きちがひになりさうで、心配しんぱいでならんのです。 私わたしには一體たい如何どうした事ことだか、事由わけが分わからん。 分わからんで、怖おそろし[Pg 127]い。 誰だれか事由わけを言いつて聽きかせて吳くれると好いいのだが、誰だれ一人ひとり其それの出來できる者ものがない。 兄にいさんは戰爭せんさうへ出でて實地じつちを目擊もくげきして來きなすつたんだ。 事由わけを話はなして下ください。」

「そんな事こと己おれは知しらん!」

 と戯言じやうだんらしく言いつてボシャリ〳〵やつてゐると、弟おとうとは悲かなしさうに、

「矢張やツぱり分わからん? ぢや、私わたしはもう誰だれの力ちからも借かりられないのだ。 酷ひどいなア! 私わたしにやもう仕して好いい事ことと惡わるい事ことの見界みさかひも附つかない、――何なにが分別ふんべつだやら、無分別むふんべつだやら、私わたしが今いま甘あまへる風ふうで、徐そツと兄にいさんの[Pg 128]咽喉のどに手てを掛かけて、グツと締上しめあげたら、如何どうだらう?」

「馬鹿ばかを言いつてる! 誰だれが其樣そんな眞似まねをする奴やつが有あるもんか!」

 弟おとうとは冷つめたい手てを揉もむで、微かすかに笑わらつて、

「兄にいさんが彼地あツちに居ゐる頃ころ、私わたしは夜よる寢ねない事ことが能よく有あつた、――眼めが合あはないで。 すると、變へんな氣きになつて、斧おのでもつて阿母おつかさんも、妹いもうとも、下女げぢよも、犬いぬも、皆みな叩殺たゝきころして了しまはうかと思おもふ。 無論むろん然さう思おもふばかりで、其樣そんな事ことは行やる氣遣きづかひはないが…」

「行やられちや耐たまらん」、と私わたしは莞爾につこりして、ボシャリ[Pg 129]ボシャリとやつてゐると、

「それから又またナイフだ。 總すべて銳利えいりな晃々ぴか〳〵する物ものがあると、危險けんのんでならん。 若もし私わたしがナイフを持もつたら、屹度きつと人ひとを斬きりさうな氣きがする。 だつて、若もし銳利えいりなナイフだつたら、斬きりたくなるに不思議ふしぎはないでせう?」

「尤もつともな次第しだいだ。 お前まへも餘程よほど變物へんぶつだな。もう少すこし湯ゆを注さして吳くれ。」

 弟おとうとは龍頭りうづを捻ひねつて、湯ゆを注さしてから、また、

「それから又また群衆ぐんじゆだ。 人ひとが大勢おほぜい集あつまつてると、私わたしは心配しんぱいでならん。 晚ばんに外そとで大おほきな聲こゑでもして騷々さう〴〵し[Pg 130]いと、私は愕然ぎよツとして、始はじまつたのぢやないかと思おもふ、斬合きりあひが。 人ひとが二三人にん立話たちばなしをしてゐる。 話はなしの筋すぢが分わからないと、今いまにも其その人逹ひとたちが大聲おほごゑ立たてゝ飛蒐とびかゝつて斬合きりあひが始はじまりさうに思おもはれてならん。 それに貴兄あなたも御存ごぞんじだらうが」、と仔細しさいありげに私わたしの耳みゝの側そばへ顏かほを持もつて來きて、「新聞しんぶんを見みると、人殺ひとごろしの記事きじだらけでせう? それが皆みな變へんな人殺ひとごろしばかりだ。 十人にん十種といろといふけれど、虛うそです。 人ひとの良智りやうちといふものは一ひとつで、その良智りやうちが段々だん〴〵曇くもり出だしたのです。 まあ、私わたしの頭あたまを觸さはつて御覽ごらん、非常ひじやうに熱あついから。 全まるで火ひのやうだ。 けれども此奴こいつが時ときとすると冷つめたく[Pg 131]なつて、頭あたまの中なかが總すべて凍こほつたやうな、かじけたやうな、怖おそろしい、コチ〳〵の、氷こほりのやうな物ものになつて了しまふ事ことも有あるのです。 私わたしは如何どうしても氣違きちがひになりさうだ。 笑わらひ事ごとぢやない、本當ほんたうに氣違きちがひになりさうだ。 もう十五分ふんになりますよ。 好加減いゝかげんにお出でなさらんと…」

「もう少すこし。 もう一分ぷんばかり。」

 昔むかしのやうに湯槽ゆぶねに涵つかつて、弟おとうとの言いふ事ことには心こゝろを留とめずに、耳みゝに慣なれた其聲そのこゑを聽ききながら、少すこし綠靑ろくしやうを吹ふいた銅どうの龍頭りうづだの、見慣みなれた壁かべの模樣もやうだの、棚たなに順じゆん好よく列ならべた寫眞しやしん機械きかいだのと、古ふるい馴染なじみのあ[Pg 132]る、有觸ありふれた、平凡へいぼんの物ものばかりだけれど、之これを見みてゐると、何なんとも言いへず心持こゝろもちが好いい。 又また寫眞しやしん硏究けんきうを始はじめて、平凡へいぼんな隱おだやかな景けいを寫うつしたり、坊ばうの步あるく所ところや笑わらふ所ところや、惡戯いたづらする所ところを撮とつたりする。 足無あしなしでも是これなら出來できる。 文壇ぶんだんの名著めいちよや、思想界しさうかいの新あたらしい功程こうていや、美びや、平和へいわを題目だいもくにして文ぶんを作つくるのだ。

「ほツ、ほツ、ほ!」といつて、私わたしはボシャリボシャリと行やつた。

「如何どうしたんです?」

 と弟おとうとが吃驚びつくりして顏色かほいろを變かへたから、

[Pg 133]「なに、たゞ… 家うちに斯かうしてゐるのが愉快ゆくわいだもんだからね。」

 弟おとうとは微笑びせうした。 その樣子やうすが如何いかにも私わたしを赤兒あかごか年下としゝたの者もののやうに思おもつてゐるらしかつたが、其癖そのくせ私わたしより三みツつ下したなのだ。 而さうして自分じぶんは大人おとなぶつて凝ぢツと考込かんがへこんだ所ところは、何なにか年來ねんらい思惱おもひなやむ一大事だいじでも有ありさうな樣子やうすだつた。

 やがて首くびを竦すくめて、

「迯にげやうにも、迯路にげみちがない。 每日まいにち殆ほとんど同おなじ時刻じこくに新聞しんぶんが人ひとの血ちの通かよひを止とめて、人間にんげんが皆みな愕然ぎよツとする。 其時そのとき皆みな一度どに種々いろ〳〵な氣持きもちになつて、考かんがへたり、[Pg 134]泣ないたり、苦くるしむだり、怖おそれたりするから、私わたしは縋すがり處どころがない。 全まるで浪なみに揉もまれる木片こツぱか、旋風つむぢかぜに捲まかれた塵ごみといふ身みの上うへになる。 尋常じんじやう一樣やうの凡境ぼんけうを離はなれたくはないが、無理むりに引離ひきはなされて、每朝まいあさ一度どは屹度きつと宙ちうに振下ぶらさがつて足あしの下したに眞暗まつくらな怖おそろしい狂氣きやうきの淵ふちが洞開ほげる時ときがある。 私わたしは其中そのうちに此淵このふちの中なかへ落おちる、落おちなきやならん理由わけがある。 兄にいさんはまだ能よく事情じゞやうを知しんなさらないのだ。 新聞しんぶんは讀よみなさらんし、種々いろ〳〵匿かくして置おく事こともあるし、――兄にいさんはまだ能よく事情じゞやうを知しんなさらないのだ。」

 弟おとうとの言いつた事ことは私わたしは戯言じやうだんにして了しまつた。 戯言じやうだんに[Pg 135]しても、可厭いやな戯言じやうだんだが、誰だれでも氣きが狂ちがふと、戰爭せんさうのやうな氣違沙汰きちがひざたと緣えんを引ひく所ところが出來できて來きて、能よく此樣こんな不吉ふきつな事ことを言いひたがるものだから、私わたしは戯言じやうだんにして了しまつた。 湯ゆに涵つかつてボシャリ〳〵行やつてゐる此時このときには、戰塲せんぢやうで目擊もくげきした事ことは總すべて忘わすれたやうになつてゐたのだ。

「いや、匿かくすなら、匿かくして置おくが好いいが、――しかしもう出でやう」、と何心なにごゝろなく私わたしが言いつたので、弟おとうとは微笑びせうして、下男げなんを召よんで、二人ふたりして私わたしを湯ゆから出だして着物きものを被きせて吳くれた。 で、香氣かをりの高たかい茶ちやを私わたしのと極きめて線入すぢいりのコツプで飮のむで、なんの、[Pg 136]足あしがなくても、生いきてゐられる、と思おもつた。 茶ちやが濟すむでから、書齋しよさいへ連つれて行いつて貰もらつて、机つくゑに向むかつて、仕事しごとに掛かゝる用意よういをした。

 戰爭前せんさうまへ迄までは或ある雜誌ざつしで外國文學ぐわいこくぶんがくの評論ひやうろんを受持うけもつてゐたから、今いまも手近てぢかに黃き、靑あを、鳶色とびいろ、種々いろ〳〵の表紙へうしの附ついた、懷なつかしい、淸潔きれいな書物しよもつが山やまと積つむである。 嬉うれしさも嬉うれしい、何なんとも言いへず樂たのしみで、直すぐに讀よむ氣きになれなかつたから、書物しよもつを繙ひろげては、徐そツと撫なでゝゐた。 其時そのとき私わたしの面かほには微笑びせうが漾たゞよつた。 屹度きつと馬鹿氣ばかげた微笑びせうだつたらうが、引込ひツこめる事ことが出來できないで、活字くわつじや、唐草からくさや、簡素あツさりした、少すこしも俗[Pg 137]氣ぞくきのない、見事みごとな挿繪さしゑなぞを眺ながめてゐた。 皆みな非常ひじやうに工夫くふうを凝こらしたもので趣味しゆみがある。 例たとへば、この文字もじなど、簡單かんたんで、恰好かつかうが好よくて、巧たくみに出來できてゐる。 線せんと線せんとが絡からみ合あつた處ところに調和てうわがあつて、看みる者ものの心こゝろに語かたる所ところが多おほい。 之これを案あんじ出だすには、幾干いくらの人ひとが刻苦こくゝして、硏究けんきうして、何程どれほど才能さいのう、趣味しゆみを籠こめてあるか、分わからん。

「さあ、仕事しごとしなきや」、と私わたしは眞面目まじめになつて言いつた。 我わが仕事しごとながら疎おろそかには思おもへぬ。

 で、ペンを取上とりあげて題だいを書かかうとすると、手てが糸いとで括くゝつた蛙かへるのやうに、紙かみの上うへを跳はね廻まはる。 ペン[Pg 138]が紙かみに突掛つツかゝつて、バリ〳〵といつて、跳反はねかへつて、止度とめどなく橫よこへ逸それて、毟散むしりちらしたやうな、曲まがりくねつた、えたいの分わからぬ、醜まづい線せんが出來できて了しまふ。 私わたしは聲こゑも立たてず、動うごきもせず、一大事だいじの直ひたと身みに逼せまるを覺おぼえて、冷ひやりとして息いきを塞つめてゐると、手ては晃々きら〳〵と明あかるい紙かみの上うへを躍をどつて、指ゆびが一本ぽん々々〳〵わなわなと顫ふるへる。 その顫ふるへる處ところに、便たよりない、物狂ものぐるほしい恐怖心きようふしんが活いきて躍をどつてゐる。 どうやら指ゆびだけがまだ戰塲せんぢやうに居殘ゐのこつて、空そらに映うつる火影ほかげや血糊のりを見みて、言語ごんごに絕たえた疼いたみを呻うめき叫さけぶその聲こゑを聽きいてゐるやうだ。 指ゆびは私わたしの體からだを離はなれて、魂たましひが籠こもり、[Pg 139]耳みゝとなり、眼めとなつたのだ。 聲こゑをも揚あげ得えず、動うごくこともせず、私わたしは冷つめたくなつて、晃々きら〳〵と潔きよい白紙はくしの上うへを指ゆびが躍廻をどりまはるのを眺ながめてゐた。

 寂然しんとしてゐる。 家内かないの者ものは私わたしが仕事しごとをしてゐると思おもふから、物音ものをとさせては邪魔じやまにならうと、戶とは皆みな閉切しめきつてある。 動うごくことも叶かなはぬ私わたしは獨ひとり室内しつないに居ゐて、大人おとなしく手ての顫ふるへるのを眺ながめてゐた。

「なに、何なんでもない」、私わたしは大聲おほごゑに言いつた。 書齋しよさいの掛離かけはなれて寂然しんとした中なかで、聲こゑは皺嗄しやがれて厭いやに響渡ひゞきわたる。 狂人きちがひの聲こゑのやうだ。 「なに、何なんでもない。 文句もんくを口授くじゆすりや好いい。 ミルトンも復樂園パラダイス、リゲーンドを書かい[Pg 140]た時ときにや、盲人めくらだつたと云いふ。 己おれはまだ物ものを考かんがへる事ことは出來できる。 これが何なによりだ。 これさへ叶かなへば、文句もんくはない。」

 で、盲目まうもくのミルトンの事ことを意味いみの深ふかい長ながい文句もんくに仕立したてゝ見みやうとしたが、言葉ことばが紛糾こぐらかつて、締しめの利きかぬ活字くわつじのやうに、ほろ〳〵と零こぼれ落おちて、漸やうやく文句もんくの末すゑになつたと思おもふ頃ころには、もう始はじめの方はうを忘わすれてゐる。 其時そのとき如何どうして此樣こんな事ことになつたのか、何故なぜミルトンとかいふ人ひとの事ことを變へんな無意味むいみな文句もんくに仕立したてやうとしてゐるのか、懷出おもひださうとして見みたが、憶出おもひだせなかつた。

[Pg 141]「復樂園々々々パラダイス、リゲーンド〳〵」、と反覆くりかへして見みたが、何なんの事ことだか、分わからない。

 そこで考かんがへて見みると、私わたしは一體たい能よく物忘ものわすれをするやうになつた。 妙めうに放心はうしんしてゐて、見識みしつた人ひとの面かほをも見違みちがへる。 尋常じんじやうの話はなしをしてゐてさへ言葉ことばが見付みつからんで、時ときとすると言葉ことばは覺おぼえてゐても、どうしても意味いみの分わからん事こともある。 頓やがて今日けふ一日にちの事ことが瞭然はつきり胸むねに浮うかんで來きたが、何なんだか妙めうな、短みじかい、ぶつりと切きれた、私わたしの足あしのやうな一日にちで、加之しかも處々ところ〴〵ポカンと穴あなの開あいた變へんな處ところがある。 これは長ながいこと意識いしきの消きえてゐた、或あるひは無感覺むかんかくであつ[Pg 142]た間あひだだから、其時そのときの事ことを憶出おもひださうとしても、何一なにひとつ憶出おもひだせない。

 妻さいを呼よばうと思おもへば、名なを忘わすれてゐる。 それを又また不思議ふしぎとも何なんとも思おもはない。 窃そつと小聲こごゑで言いつて見みた、

「細君さいくん!」

 落着おちつきの惡わるい、此樣こんな塲合ばあひに用もちひた事ことのない此この言葉ことばが低ひくく響ひゞいて、返答へんたふをも待またんで、消きえて了しまふ。 寂然しんとしてゐる。 家内かないの者ものは心こゝろなく物音ものおとをさせて私わたしの仕事しごとの邪魔じやまをすまいとしてゐるのだ。 寂然しんとしてゐる。 如何いかにも學者がくしやの書齋しよさいらしい。 靜しづかで、[Pg 143]居心ゐごゝろが好よくて、觀念くわんねんをも誘いざなへば、作意さくいを催もよほす便たよりともなる。 あゝ、皆みな己おれの事ことを思おもつてゝ吳くれると、私わたしは染々しみ〴〵嬉うれしく思おもつた。

 …で、感興かんきよう、神來しんらいの感興かんきようが湧わいて來きた。 頭あたまの中なかで燦ぱツと日ひが照出てりだして、創造さうざうの力ちからを載のせた熱あつい光ひかりを世界せかいの上うへに落おとす時とき、花はなが散ちり、歌うたが散ちる。 花はなに歌うただ。 私わたしは徹夜よツぴてペンを措おかなかつたが、疲つかれを覺おぼえなかつた。 雄大ゆうだいな神來しんらいの感興かんきようの翮つばさを皷こして、縱橫じゆうわう無碍むげに翔廻かけめぐつて、文ぶんを作つくつた。 天地間てんちかんの一大だい文章ぶんしやうだ、千歲ざい不磨ふまの文章ぶんしやうだ。 花はなが散ちり、歌うたが散ちる。 花はなに歌うただ…。

[Pg 144]

(後篇、斷篇第十)

 …兄あには幸さいはひ前週ぜんしう金曜日きんえうびに世よを去さつた。 反覆くりかへしていふが、これは兄あにの爲ためには大おほいなる幸福かうふくである。 總身そうみのわな〳〵と震ふるへる、亂心らんしんした、足無あしなしの不具者かたはものが製作せいさくの熱なつに浮うかされてゐる處ところは無氣味ぶきみも無氣味ぶきみだつたが、慘澹みじめでもあつた。 其夜そのよから丸まる二ふタ月つき、絕食ぜつしよくで椅子ゐすに掛かけたまゝ書通かきとほしてゐた。 少すこしでも机つくゑから引離ひきはなせば、泣ないて罵のゝしる。 乾かはいたペンで紙かみの上うへを搔廻かきまはしては、一枚まい々々〳〵撥退はねのけるその迅はやさは眼めを驚おどろかすばかりで、書かいて〳〵書かき捲まくる。 一[Pg 145]睡すゐもしない。 催眠劑さいみんざいを多量たりやうに服のませて、やつと二度ど幾時間いくじかんか床とこに就つかせた事ことがあるばかりで、それからはもう藥くすりもその製作せいさくの狂熱きやうねつを抑おさへる力ちからを失うしなつた。 當人たうにんの望のぞみに任まかせて、終日しうじつ窓まどの帷カーテンを引ひいたまゝ、ランプは點とぼしばなしで、夜よらしく見みせかけた中なかで、兄あにはシガレットを燻くゆらしくゆらし、書かいてゐた。 傍はたから見みては、頗すこぶる自得じとくの體ていであつた。 健康けんかうの人ひとにも此程これほどの興きようの乗のつた面かほを私わたしはまだ見みた事ことがない。 豫言者よげんしやか大詩人だいしじんといふ面相かほつきであつた。 甚ひどく窶やつれて、死人しにんか行者ぎようじやのやうに、蠟色らふいろの透徹すきとほつた肌はだになり、頭かみも全まつたく白しろくなつて、この物狂ものぐるほしい仕事しごとを始はじめ[Pg 146]た時ときは、まだ〳〵若わかかつたが、之これを終をはる頃ころには、既すでに老翁らうをうになつてゐた。 時ときとしては例いつになく急いそいで書かく時ときがある。 すると、ペンが紙かみに突掛つツかゝつて折をれるけれど、氣きが附つかない。 かういふ時ときには、手ても着つけられんので、若もし誤あやまつて一寸ちよつとでも觸さはれば、發作ほつさが起おこつて、泣なくやら、笑わらふやらする。 滅多めつたにはないが、時ときには暫しばらく心こゝろに掛かゝる雲くももないやうに、快こゝろよげに打寛うつくつろろいで、機嫌きげんよく私わたしと話はなしをする事こともある。 いつも其時そのときは屹度きつと、お前まへは誰だれだ、名なを何なんといふ、文學ぶんがくを始はじめてからもう餘程よほどになるか、と聞きく。

 それが濟すむと、今度こんどは、自分じぶんは記憶力きおくりよくを失うしなつて、[Pg 147]もう仕事しごとが出來できぬかと思おもつて、滑稽こつけいにも吃驚びツくりしたが、さう思おもふ下したから直すぐに花はなや歌うたを題だいに、千古せんこの大作たいさくに掛かゝつて、この馬鹿ばからしい取越苦勞とりこしくらうを立派りツぱに根底こんていから覆くつがへしたといふ話はなしになつて、いつも極きまり切きつた文句もんくで、體たいを下くだして其事そのことを話はなして聞きかせる。

「無論むろん私わたしは今いまの人ひとに認みとめられやうとは思おもはん」、と何なにも書かいてない白紙はくしの山やまに震ふるへる手てを載のせて昂然かうぜんとはするが、さりとて敢あへて激げきした樣子やうすはなく、「が、未來みらいだ、――未來みらいでは私わたしの理想りさうが認みとめられる時ときもあらう。」

 戰爭せんさうの事ことは一度ども言出いひだした事ことがない。 妻つまや子供こども[Pg 148]の事ことも其通そのとほり。 果はてしのない、幻まぼろしのやうな仕事しごとに全まつたく魂たましひを打込うちこんで了しまつて、此これより外ほかには眼中がんちうに何なにもないやうに思おもはれた。 側そばで步あるいても、話はなしをしても、一向かう氣きが附つかぬらしく、いつも感興かんきように乗のつて一心しん不亂ふらんになつた面かほをして、些ちつとの間まも其その面相かほつきを改あらためない。 皆みな眠入ねいつてゐる夜よるの寂然しんとした中なかで、兄あに一人ひとり果はてしのない狂亂きやうらんの糸いとを撚よつて倦うむことを知しらぬその樣子やうすは慄然ぞつとする程ほどで、私わたしと母はゝとの外ほかには、側そばへ行ゆき得える者ものもなかつた。 或時あるとき私わたしは偶然ひよツと本當ほんたうに何なにか書かくかと思おもつて、乾かはいたペンの代ぺんりに鉛筆えんぴつを宛あてがつて見みた事ことがあつたが、紙かみに殘のこつた筆ふでの跡あとを[Pg 149]見れば、矢張やはり只たゞのむしつたやうな、曲まがりくねつた、えたいの分わからぬ、醜みにくい線せんであつた。

 息いきの絕たえたのは夜よるで、矢張やはり執筆中しつぴつちうであつた。 私わたしは兄あにの心持こゝろもちを能よく知しつてゐたから、氣きが狂ふれたのに格別かくべつ驚おどろきもしなかつた。 甚ひどく文筆ぶんぴつを戀こひしがつてゐたのは、まだ戰地せんちからの手紙てがみにも微見ほのみえてゐた事ことで、歸かへつてからも其それが即すなはち命いのちであつたが、この願ねがひと、苦くるしみ拔ぬいた、疲つかれ果はてた、甲斐かひない腦なうと撞着どうちやくしては、破滅はめつを來きたすべき運命うんめいであつた。 私わたしは兄あにが此晚このばんに運盡うんつきて死しぬまでの心持こゝろもちを次第しだいを逐おうて可かなり精確せいかくに記しるし得えたと思おもふ。 兎とも角かくも爰こゝに私わたしが[Pg 150]戰爭せんさうについて記しるした所ところは、死しんだ兄あにの話はなしに材ざいを取とつたので、話はなしは大抵たいてい辻褄つぢつまが合あはないで紛まぎらはしかつたけれど、唯たゞ或時あるとき或折あるをりの光景くわうけいは深ふかく腦なうに染しみて消きえなかつたと見みえて、殆ほとんど話はなしの儘まゝを書取かきとれば、それで事足ことたつた。

 私わたしは兄あにを愛あいしてゐた。 兄あにの死しは石いしの如ごとく私わたしの心頭しんたうに橫よこたはつて、その死しの無意味むいみな事ことが腦なうを壓あつして苦くるしい。 かねて蜘蛛くもの巢すのやうに頭あたまを包つゝむ不思議ふしぎな物もののある上うへに、更さらに輪わを掛かけて締付しめつけられるやうだ。 家族かぞくは皆みな田舎ゐなかの親戚しんせきの處ところへ行いつて了しまつて私わたし一人ひとり家いへに殘のこつてゐたが、此家このいへは小ちひさな一軒建けんだてで、[Pg 151]大層たいそう兄あにの氣きに入いつてゐた。 召使共めしつかひどもには皆みな暇ひまを遣やつて了しまつたから、每朝まいあさ隣家となりの門番もんばんが煖爐だんろを焚付たきつけに來くるばかりで、跡あとは私わたし一人ひとりきりだ。 宛然まるで二重窓ぢうまどの隙間すきまへ締込しめこめられた蠅はひのやうに、狂廻くるひまはつては隔へだての變へんな物もので鼻はなを衝つく。 透徹すきとほつて見みえるけれど、これが中々なか〳〵破やぶれない。如何どうしても此家このいへを迯出にげだされぬやうな氣きがする、然さう思おもはれる。 かう一人ひとりになつてみると、戰爭せんさうの事ことが氣きになつて、片時へんじも忘わすれられん。 解とけぬ謎なぞか、肉にくで包つゝめぬ靈れいというやうに、それが目前もくぜんに控ひかへてゐる。 これに種々しゆ〴〵の形かたちを賦つけて見みる。 或あるひは馬うまに跨またがつた目めの無ない骸骨がいこつと見み、或あるひは[Pg 152]雨雲あまぐもの中なかから湧わいて出でて、窃そつと大地だいぢを包つゝむおぼろげな影かげと見みるが、どう見みても私わたしの掛かけた問とひの答こたへにはならないで、絕たえず胸むねを鎖とざす冷つめたい鈍のろい恐怖きようふの念ねんは汲くむでも〳〵汲くみ盡つくされぬ。

 私わたしは戰爭せんさうといふものゝ意味いみがわからぬ。 これでは矢張やはり兄あにのやうに、乃至ないし戰地せんちから後送こうさうせられて來くる多おほくの人ひとのやうに、氣違きちがひにならねばなるまいが、それはさう怖おそろしいとも思おもはぬ。 私わたしが本心ほんしんを失うしなふのは、番兵ばんぺいが勤務きんむに殪たふれるやうなもので、名譽めいよの事ことだと思おもふ。 たゞ、しかし、じり〳〵と弛たるみなく狂氣きやうきになつて行ゆくのが辛つらい。 何なにか大おほきな物ものが深ふかい[Pg 153]淵ふちに陷おちいるやうな刹那せつなの氣持きもちが辛つらい、膓はらはたを毟むしる想念おもひの耐たへぬ痛いたみを抱いだくのが辛つらい…私わたしの心こゝろは默もくして了しまつた、絕入たえいつて、もう新あたらしい生命いのちを得える事ことも出來できぬ。 しかし想念おもひはまだ生いきてゐる、まだ※[#立+宛]《もが》いてゐる、曾かつてはサムソンの如ごとく强つよかつたのが、今いまは小兒せうにのやうに繊弱かよわくて便たよりない。 私わたしは私わたしの哀あはれな想念おもひが傷いたましい。 時々とき〴〵鐵輪てつわの腦なうを締付しめつける苦痛くつうに堪たえぬ時ときには、町まちの、廣小路ひろこうぢの、人通ひとどほりの多おほい處ところへ驀然まつしぐらに駈出かけだして行いつて、大聲おほごゑに呼よばはつてみたくなる、

「只たツた今いま戰爭せんさうを止やめろ! 止やめんと…」

 [Pg 154]止やめんと、如何どうする? 世よに人間にんげんの惑まどひを解とくべき言葉ことばが有あるか? かういへば、あゝと、同おなじ樣やうに壯語さうごして、癖言くせごとも言いへば言いへる。 或あるひは人間にんげんの前まへに跪ひざまついて泣ないたら? 數すう十萬まんの人ひとの泣聲なきごゑが世よを撼ゆすつても、何なんの効かひもないでないか? 或あるひは人間にんげんの前まへで自殺じさつして見みせたら? 自殺じさつ。 每日まいにち數すう千といふ人ひとが命いのちを殞おとしても、何なんの効かひもないでないか?

 かうして自分じぶんの力ちからでは奈何いかんともすることが出來できぬと思おもふと、私わたしは氣きが坐そゞろになる、――呪のろふ所ところの戰爭せんさうに感かぶれて、其その狂味きやうみを帶おびて來くる。 兄あにの話はなしのドクトルのやうに、妻子さいし珍寶ちんぱう諸共もろともに人間にんげんの栖家すみかを焚や[Pg 155]きたくなる、その飮のむ所ところの水みづに毒どくを投とうじたくなる、所有あらゆる死人しにんを棺くわんから引出ひきだして亡骸なきがらを汚けがれた人ひとの寢臺ねだいの上うへに抛付なげつけたくなる。 汝等なんぢら人間にんげん、妻つまを抱いだき情婦じやうふを抱いだいて眠ねむる如ごとくに、死骸しがいを抱いだいて睡ねむり去され!

 あゝ惡魔あくまになりたい! 地獄ぢごくの慘さんたる有樣ありさまを此世このよに寫うつして、人間にんげんに見みせ付つけて遣やりたい。 人間にんげんの夢ゆめを司つかさどつて、人ひとの親おやが笑顏ゑがほをして眠ねむらむとしては、其子そのこに十字じを切掛きりかける時とき、眞黑まつくろな姿すがたをして其その面前めんぜんにヌツクと立たつてやりたい…

 私わたしはどうしても氣きが狂くるふ。 たゞ、狂くるふなら、早はやく狂くるへ、――一刻こくも早はやく狂くるへ…

[Pg 156]

(斷篇第十一)

 …俘虜ふりよで、恟々おど〳〵した、震ふるへてゐる一團だんの人ひとだ。 之これを車室しやしつから引出ひきだした時とき、見物けんぶつは唸うなつた、――短みじかい脆弱やにこい鎖くさりで繫つないだ、大おほきな、意地いぢの惡わるい犬いぬの如ごとく唸うなつた。 唸うなつてから、默だまつて肩かたで息いきをしてゐると、俘虜逹ふりよたちは手てを衣囊かくしへ入いれ、白しろい齒はを見みせて媚こびるやうに微笑びせうしながら、犇ひしと目白押めじろおしに押塊おしかたまつて行ゆく。 それを見みると、今いまにも背後うしろから長ながい棒ぼうで臑すねの處ところをビシヤリと打やられるといふ人ひとの足取あしどりだ。 が、中なかで一人ひとり落着おちついて、微笑にツこりともせず、險相けんさうな面かほ[Pg 157]をして行ゆく者ものがある。 私わたしと目めを視合みあはせた時とき、其その黑くろい目めの中うちに公然あからさまの衣着きぬきせぬ媢嫉にくしみが讀よめた。 此男このをとこは私わたしを卑いやしんでゐて、此奴こいつ何なにを爲するか知しれたものでない、と思おもつてゐたに違ちがひない。 若もし私わたしが獲物えものも持もたぬ此この男をとこを斬きらうとしたら、必かならず聲こゑをも立たてず、手向てむかひも辯解いひわけもしなかつたらう。 私わたしは何なにをするか知しれた物ものでない、と思おもつてゐたに違ちがひない。

 も一度ど此男このをとこと眼めを視合みあはせたくなつて、見物けんぶつと共ともに駈出かけだして行いつた。 俘虜逹ふりよたちが收容所しうようじよへ入はいる時とき、願ねがひが叶かなつて、其男そのをとこが先まあ身みを開ひらいて戰友せんいうを皆みな通とほしてから、自分じぶんも内うちへ入はいらうとして、と又また私わたしの面かほを視み[Pg 158]た。 黑くろい、大おほきな、瞳ひとみの散ちつた眼めに、無限むげんの恐怖きようふと狂氣きやうきとを浮うかべて、如何いかにも苦くるしさうで、之これを見みては世よに是程これほどの不幸あじきない心持こゝろもちになつてゐる人ひとは有あるまいと思おもはれた。

「あれは何者なにものです、あの變へんな眼付めつきをしてゐる男をとこは?」

 と護送ごさうの兵士へいしに尋たづねて見みると、

「士官しくわんです。 狂人きちがひなんで。 あゝいふのは澤山たくさん有あります。」

「名前なまへは?」

「默だまつてゝ名前なまへを言いはんのです。 外ほかの俘虜ふりよも知しら[Pg 159]んといふから、大方おほかた餘所よそのが紛まぎれ込こんで來きたんでせう。 もう一度ど首くびを縊くゝらうとしたのを助たすけた事ことがあるんで、や、どうも手てが附つけられない!…」

 と兵士へいしはその手ての附つけられないといふ事ことを手眞似てまねでして見みせて、戶との内うちへ隱かくれて了しまつた。

 で、かう晚ばんになつてから、此この俘虜ふりよの事ことを考かんがへてみると、あゝして獨ひとり敵中てきちうに居ゐる。 如何どんな目めに遭あははされるかも知しれない、と思おもつてゐる。 味方みかたは居ゐても、知しつた面かほは一人ひとりもない。 默だまつて、浮世うきよの隙ひまの明あくのを辛抱强しんばうづよく待まつてゐるのだが、それにしても如何どうも狂人きちがひとは思おもへぬ。 臆病おくびやうでもなさゝうだ。 [Pg 160]皆みな魂たましひが身みに添そはずぶる〳〵物ものでゐる中なかで、獨ひとり昂然かうぜんとしてゐる。 恐おそらく其その仲間なかまをも仲間なかまと思おもつてゐまい。 如何どんな心持こゝろもちでゐるだらう? 死しに臨のぞむで名なを言ふまいといふ、その絕望ぜつばうの深ふかさは測はかり知しられぬ。 名なを言いつたとて何なんの益えきがある? 今いまは是迄これまでの命いのちと覺悟かくごして、人間にんげんの眞價しんかを覺さとつた身みには、周圍まはりで如何どんなに騷さわいだとて、喚わめいたとて、又また威嚇ゐかくしたとて、眼中がんちうにもう人間にんげんはない、敵てきもなければ、味方みかたもない、――といつた氣きになつてゐるのだらう。 此男このをとこの身みの上うへを聞糺きゝたゞしてみたら、一度どに數萬すまんの戰死者せんししやを出だした此頃このごろの怖おそろしい戰鬪せんとうの時とき、捕虜ほりよにな[Pg 161]つたので、捕虜ほりよになる時とき、抵抗ていかうしなかつたと云いふ。 何故なぜか武器ぶきを持もつてゐなかつたのを、それとは氣きが附つかずに一兵卒ぺいそつが劍けんを揮ふるつて斬付きりつけると、起上おきあがりもせず、手てを戟ほこにして攔さへぎりもしなかつたが、創きずは淺あさかつた。 創きずの淺あさかつたのは、此男このをとこの身みにしたら生憎あいにくな事ことだつた。

 しかし全まつたく狂人きちがひでないとも云いへぬ。 護送ごさうの兵士へいしもさういつたが、かういふのは澤山たくさん有あるさうな…

(斷篇第十二)

 …そろ〳〵始はじまつた。 昨夜さくや兄あにの書齋しよさいへ入はいると、[Pg 162]兄あにが安樂椅子あんらくゐすに恁もたれて、書物しよもつに埋うづまつた机つくゑに對むかつてゐる。 手燭てしよくに火ひを點つけると、幻まぼろしは直すぐ消きえて了しまつたが、久しばらくは其その安樂椅子あんらくゐすには凭かゝる氣きになれなかつた。 初はじめの中うちは恐おそろしかつた、――ガランとした室内しつないに、何なにか絕たえずさら〳〵といふ音おとや、ぱち〳〵と物ものの爆はねる音おとがして薄氣味うすきみ惡わるかつたが、而しかし兄あになら他人たにんには勝ましだと思おもふと、寧むしろ居心ゐごゝろが好よくなつた。 が、それでも此晚このばんは徹宵よツぴて椅子ゐすを離はなれなかつた。 離はなれたら、直すぐ兄あにが掛かけさうに思おもはれて。 室へやを出でる時ときは、背後うしろを向むかずに、急いそいで出でた。 家中うちゞうに燈火あかりを點つけたものか――いや、それにも及およぶまい[Pg 163]か? 燈火あかりで何なにかゞ見みえたら、尙なほ無氣味ぶきみだらう。 此儘このまゝだと、まだ多少たせうの疑うたがひを存そんして置おく事ことも出來できる。

 今日けふ手燭てしよくを持もつて部屋へやへ入はいつたら、椅子ゐすには誰だれも掛かけて居ゐなかつた。 してみると、昨夜ゆうべは唯たゞ影かげがちらりとしたばかりで有あつたのだ。 又また停車塲ていしやばへ行いつてみると、――もう此頃このごろでは每朝まいあさ行ゆく事ことにしてゐるのだが、行いつてみると、味方みかたの瘋癲ふうてん患者くわんじやばかりを載のせた車輛しやりやうがある。 戶とも開あけずに別べつの線路せんろへ移うつして了しまつたが、それでも窓まどから幾人いくにんかの面かほが見みえた。 皆みな怖おそろしい面かほであつた。 殊ことに一人ひとりの患者くわんじやの面かほは法外はふぐわいに間まが延のびて、レモンのやうに黃きいろく、[Pg 164]明放あけツぱなしの眞黑まつくろな口くちに据すわつた眼めと、どう見みても「無殘むざん」を面おもてに刻きざむだやうな面かほで、私わたしは之これに眼めを奪うばはれて了しまつた程ほどだつたが、直ひたと私わたしと眞向まむかひに向むき合あつて、凝ぢつと首くびを据すゑて、其儘そのまゝ眉まゆ一ひとつ動うごかさず、目まじろぎもせずに、動うごき出だす汽車きしやと共ともに行過ゆきすぎて了しまつた。 これが停車塲ていしやばで仕合しあはせ、若もし家うちのあの暗くらい戶口とぐちで此面このかほが見みえたら、私わたしは到底とても堪たへ切きれなかつたらうと思おもふ。 聞きいて見みたら、後送こうさうされた瘋癲ふうてん患者くわんじやは廿二名めいだつたと云いふ。 愈々いよ〳〵流行りうかうするものと見みえる。 新聞しんぶんでは一向噂かうゝはさもせぬが、市内しないでも徐々そろ〳〵其萠そのきざしが見みえるやうだ。 礑はたと戶とを締切しめきつた眞黑まツくろな馬車ばしや[Pg 165]を折々をり〳〵見みかける。 今日けふ一日にちに彼方此方あちこちで六臺だいも見掛みかけたが、大方おほかた私わたしも今いまに彼あれに乗のる事ことであらう。

 新聞紙しんぶんしは每日まいにち軍隊ぐんたい輸送ゆさうの必要ひつえうを說とく。 更さらに血ちを流ながす必要ひつえうがあると云いふ。 如何どういふ譯わけだか、私わたしは愈愈いよいよ分わからない。 昨日きのふ奇怪きくわい千萬ばんな論文ろんぶんを讀よむだ。 その說せつに、國民中こくみんちうにも軍事探偵ぐんじたんてい、賣國奴ばいこくど、謀叛人むほんにんが澤山たくさん有あるから、銘々めい〳〵戒心かいしんして十分ぶんに注意ちういしなければならんが、國民こくみんの公憤こうふんに照てらされては、此この極惡人等ごくあくにんらも遂つひに其跡そのあとを晦くらますことは出來できまいとあつた。 此この極惡人等ごくあくにんらとは如何どんな人逹ひとたちの事ことで、如何どんな惡事あくじを働はたらいたのだらう? 停車塲ていしやばを出でて電車でんしやに乗のつたら、[Pg 166]車中しやちうで變へんな話はなしを聞きいた。 大方おほかた其その極惡人逹ごくあくにんたちの噂うはさをしてゐたのだらう。

「さういふ奴等やつらは裁判さいばんも何なにも有あつたものぢやない、卒然いきなり絞罪かうざいに處しよしツ了ちまふが好いいのです、」と一人ひとりが言いつて、胡亂うろんさうに皆みなを視廻みまはした序つひでに、私わたしの面かほをも瞥ちらりと視みて、「謀叛人むほんにんは絞殺やツつけるに限かぎる。」

「用捨ようしやなくな」、と今いま一人ひとりが合槌あひづちを打うつて、「もう散散さんざん用捨ようしやして遣やつてますからな。」

 私わたしは電車でんしやを飛降とびおりて了しまつた。 皆みな戰爭せんさうには泣なかされてゐる、彼あの人逹ひとたちも矢張やはり然さうだらうに、――これは又また如何どうした事ことだ? 如何どうやら絳あかい霧きりが大地だいぢを包つゝむ[Pg 167]で人ひとの目めを遮さへぎり、實まことに世界せかいの破滅はめつが近ちかづいたやうに段々だん〴〵思おもはれて來くる。 兄あにが見みたといふ赤あかい笑わらひが是これだ。 かなたの血ちみどろの赤黑あかぐろくなつた野のから、狂亂きやうらんの風かぜが吹ふいて來きて、大氣たいきの中なかにその冷つめたい氣息いぶきの傳つたはるを覺おぼえる。 私わたしは屈强くつきやうな男をとこだ、病やまひで身體からだを壞こはした爲ために腦髓なうずゐが溶とろけて來きたのではないが、病毒びやうどくが傳染でんせんして私わたしの心こゝろの半なかばはもう私わたしの自由じいうにならぬ。 これはペストより惡わるい、ペストより怖おそろしい。 ペストなら、まだ何處どこへか躱かくれる法はふもある、何なにかしら豫防法よばうはふを施ほどこす事ことも出來できるが、遠近えんきんもなく、障隔へだてもなく、何處どこへでも徹とほる思想しさうには躱かくれる道みちがない[Pg 168]ではないか?

 晝ひるはまだ凌しのげるが、夜よるになると、私わたしも人並ひとなみに夢ゆめの奴やつこになつて了しまふ、――その夢ゆめが又また怖おそろしい狂氣染きちがひぢみた夢ゆめで…

(斷篇第十三)

 到いたる處ところ私鬪しとうが行おこなはれて、無意味むいみに夥おびたゞしく血ちを流ながす。 聊いさゝかの衝動しようどうにも直すぐ無法むはふな腕力わんりよく沙汰ざたになつて、ナイフや石塊いしころや棍棒こんぼうが閃ひらめき、相手あひて構かまはず手當てあたり次第しだいに打殺ぶちころす。 鮮血せんけつが兎角とかく迸ほとばしりたがつて、何なんの苦くもなく滾々こん〳〵と流ながれる。

 [Pg 169]その百姓ひやくしやうは六人にんで、丸込たまごめした銃ぢうを擔かたげた兵へいが三人にんで護送ごさうして行ゆく。 皆みな如何いかにも百姓ひやくしやうじみた、粗末そまつな、野蠻人やばんじんに髣髴はうふつたる、原始的げんしてきの服裝ふくさうで、宛然まるで粘土ねばつちで捏でツちたやうな別種べつしゆの面かほをして、髮かみの毛けも髯ひげもくしや〳〵と塊かたまつて寧むしろ毛物けものの毛けのやうで、それが富とみ榮さかゆる市街しがいを、紀律きりつの正たゞしい兵士へいしに護送ごさうせられて行ゆく所ところは、古むかしの奴隸どれいを面まのあたりに見みるやうだ。 皆みな戰地せんちへ召集せうしふせられて行ゆくので、銃劍ぢうけんには敵てきし得えず、屠所としよへ引ひかれる牛うしのやうに、罪つみの無ない面かほをしてキョトンとして行ゆく。 最先まつさきに行ゆくのは頰髭ほゝひげも生はえぬ、脊せの高たかい若者わかもので、鵞鳥がてうのやうなひよろ[Pg 170]長ながい頸くびへ、小ちひさな頭あたまを据すゑてゐる。 枯枝かれえだのやうな身體からだを前屈まへこゞみにして、凝然ぢつと足元あしもとを睇視みつめた目色めつきは地中ちちうへ喰入くひいりさうだ。殿しんがりに行ゆくのは脊せの低ひくい、髯ひげだらけの、年配ねんぱいの男をとこだつたが、もう反抗はんかうする氣力きりよくもないらしく、思慮しりよのない目色めつきをして、地ちが足あしに汲付すひつくのか、喰付くひつくのか、兎角とかく離はなれかねて、烈風れつぷうに向むかつたやうに、身みを反そらして行ゆく。 一步ぽを移うつすにも、兵士へいしに背後うしろから銃ぢうの臺尻だいじりで小突こづかれて、辛やツと片足かたあしを引離ひきはなし、わな〳〵しながら踏出ふみだすけれど、片足かたあしは地ちに附着くツついてゐて中々なか〳〵離はなれない。 兵士へいしも厭いやな面かほをして不機嫌ふきげんさうだ。 もう長ながいこと斯かうして[Pg 171]行ゆくらしく、銃ぢうを擔かたげた振ふりにも、田舎漢ゐなかものらしく内輪うちわに思おもひ〳〵に步あるく足取あしどりにも、困憊がツかりして萬事ばんじを抛遣なげやりにしてゐる處ところがある。 意味いみもなく、思切おもきり惡わるく、默だまつて百姓等ひやくしやうらが反抗はんかうするので、紀律きりつで固かたまつた頭あたまも濛ぼツとなり、何處どこへ何なんの爲ために行ゆくのか、もう分わからなくなつたといふ樣子やうすだ。

「何處どこへ連つれて行ゆくのです?」と私わたしが一番ばん端はづれの兵へいに聞きくと、その兵へいは愕然びくツとして私わたしの面かほを見みた。 ギロリとした銳するどい目色めつきで視みられた時ときには、正まさしく銃劍ぢうけんを突付つきつけられて、その切先きツさきが胸むねへグサと刺ささつたやうな氣持きもちがした。

[Pg 172]「側そばへ寄よつちや不好いかん! 退どけ! 退どかんと…」

 例れいの年配ねんぱいの男をとこが此この瞬間しゆんかんの隙ひまに乗じようじて迯出にげだした。 チョコ〳〵と小走こばしりに走はしつて、路端みちばたの柵さくの根方ねかたへ、隱かくれる積つもりなのか、蹲つぐなんだ。 眞しんの動物どうぶつでも此樣こんな呆とぼけた狂人染きちがひじみた事ことはすまい。 兵へいは大おほいに怒いかつた。 つか〳〵と側そばへ行いつて屈こゞむと、銃ぢうを左手ゆんでに持易もちかへるや、右手めてで何なにか柔やはらかい平ひらたい物ものを打うつ音おとがピシャリとした。 又またピシャリといふ。 人ひとが環集たかつて來くる。 笑わらふ聲こゑや喚わめく聲こゑがする…

(斷篇第十四)

 [Pg 173]…土間どまの十一に居ゐた。 右左みぎひだりから誰だれの腕うでだかに直ひたと身みを挾はさまれながら、周圍まはりを見廻みまははすと、ズツと向むかふまで一面めんに凝ぢツと据すゑた人ひとの首くびが薄暗うすぐらい中なかに列ならんでゐるのが、舞臺ぶたいの火影ほかげを受うけて微ぼツと赤あかく見みえる。 かうした狹せまい處ところに此樣こんなに人ひとが詰つまつてゐるのを見みてゐると、次第しだいに怖おそろしくなつて來くる。 皆みな默だまつて舞臺ぶたいの臺詞せりふを聽きいてゐる、――或あるひは何なにか餘所事よそごとを考かんがへてゐるのかも知しれぬが、多人數たにんずなので、默だまつてゐても、俳優はいゝうの大おほきな聲こゑよりも能よく聞きこえる。 咳せきをする、涕はなを拭かむ、衣摺きぬずれの音おとに足あしを踏易ふみかへる音おとがする。 深ふかい荒あらい息氣いき遣づかひの音おとさへ判然はツきり聞きこえたが、[Pg 174]此この息氣いき遣づかひの爲ために空氣くうきは生溫なまあたゝくなるのだ。 かうしてゐる人ひとが皆みな死人しにんになる時ときにはなる、皆みなの頭あたまも狂くるつてゐる、――と思おもふと、身みの毛けが彌竪よだつ。 丁寧ていねいに梳とかした頭あたまを白しろい堅かたいカラーの上うへに確しかと据すゑて鳴なりを鎭しづめてゐる處ところに、狂氣きやうきの暴風雨あらしが今いまにも吹起ふきおこりさうな氣味きみがある。

 隨分ずゐぶんの人數にんずだつたが、これが皆みな怖おそろしい人逹ひとたちで、加之しかも私わたしの居ゐる處ところから出口でぐち迄までは餘程よほどある、――と思おもふと、指ゆびの先さきまで冷つめたくなつた。 皆みな落着おちついてゐるけれど、若もし大聲おほごゑに、「火事くわじだ! …」といつたら…と思おもふと、慄然ぞツとする。 薄氣味うすきびが惡わるいけれど、[Pg 175]何なんだか切しきりに然さう言いつて見みたくて耐たまらなくなる。 今いまでも其時そのときの事ことを憶出おもひだすと、指ゆびの先さき迄まで冷つめたくなつて冷汗ひやあせが出でる。 言いはうと思おもへば、言いへん事ことはない。 起上たちあがつて、背後うしろを振向ふりむいて、大聲おほごゑに斯かういふのだ、

「火事くわじだツ! 迯にげろ〳〵、火事くわじだツ!」

 さうしたら、今いまは那麽あゝ落着おちついてゐる手足てあしに急きふに狂氣きやうきが取付とりついて慄ふるひ出だす。 皆みな躍をどり上あがり、叫さけび出だし、畜生ちくしやうのやうに、哮たけり立たつて、妻つまや姉妹あねいもうとや母親はゝおやの居ゐるのも忘わすれて、不意ふいに盲目めくらになつたやうに、彼方此方あちこちと彷徨うろ〳〵し、氣きも坐そゞろになり、果はては香水かうすゐの馨かほりの[Pg 176]高たかいあの白しろい手てで互たがひの咽喉のどを締出しめだす。 燦ぱツと塲内ぢやうないを明あかるくして、誰だれだか眞蒼まつさをな面かほをした者ものが舞臺ぶたいから何なんでも有ありません、火事くわじでも何なんでも有ありませんと呼よばはると、戰おのゝくやうに斷續だんぞくした樂聲がくせいが思切おもひきつて花はなやかに起おこるけれど、もう其樣そんな物ものに耳みゝを假かす者ものはない。 ドタバタと互たがひの咽喉のどを締しめ合あひ、或あるひは婦人ふじんの頭あたまを打うつ、手數てすうを掛かけて巧たくみに結上ゆひあげた髮かみをポカ〳〵と打うつ。 互たがひに耳みゝを引捥ひンもぎり、鼻はなを喰缺くひかく。 衣服きものも何なにも引裂ひきさかれて赤躶まるはだかになるけれど、氣きが狂くるつてゐるから、恥はぢを恥はぢとも思おもはない。 平生ひごろは吾神わがかみと崇あがめる、淚脆なみだもろい、優やさしい、美うつくしい婦人逹ふじんたちが泣聲なきごゑ立たて[Pg 177]て、足元あしもとに便たよりない身みを悶もだえ、かねての男氣をとこぎを賴たのみにして膝ひざに縋付すがりつくのに、その美うつくしい面かほを擧あげた所ところを忌々いま〳〵しさうに撲曲はりまげて、自分じぶんは出口でぐちへ出でやうと焦心あせる。 男をとこはいつでも人殺ひとごろしを行やりかねぬ。 その長閑のどかに上品じやうひんめかしてゐるのは、食しよくに飽あいた動物どうぶつが命いのちに懸かゝる大事だいじもないと安心あんしんして落着おちついてゐるのに過すぎぬ。

 で、見物けんぶつの半分はんぶんは死骸しがいになつて、ぼろ〳〵した服裝なりの人逹ひとたちが一塊ひとかたまり、出口でぐちの處ところにわな〳〵と、畜生ちくしやうが恥はぢを搔かいたやうな面かほをして慄ふるへながら、苦笑にがわらひをしてゐる時とき、私わたしが舞臺ぶたいへ出でて、斯かういつて笑わらつ[Pg 178]てやるのだ。

「みんな私わたしの兄あにを殺ころした報むくひだと思おもひなさい。」

 ね、かういつて笑わらつてやるのだ、

「みんな私わたしの兄あにを殺ころした報むくひだと思おもひなさい。」

 何なにか大聲おほごゑで私わたしが獨言ひとりごとを言いつたと見みえて、此時このとき右隣みぎどなりの人ひとが忌々いま〳〵しさうに身動みうごきをして、

「シッ! 邪魔じやまになつて聞きこえやしない。」

 私わたしは氣きが浮々うき〳〵する。 串戯ふざけて見みたくて堪たまらない。 事有ことありげな、生眞面目きまじめな面かほを作つくつて、其方そのはうへ持もつて行ゆくと、

「何なんです? 何故なぜ其樣そんなに人ひとの面かほを視みるのです?」

[Pg 179]と其人そのひとが胡亂うろんさうに聞きく。

「靜しづかに」、と私わたしは唇くちびるばかりを動うごかして咡さゝやく。

「甚ひどくキナ臭くさいでせう? 火事くわじですぜ。」

 者奴しやつ中々なか〳〵の氣丈者しつかりもので分別ふんべつの有ある奴やつと見みえて、聲こゑは立たてなかつた。 さツと顏色かほいろを變かへると、牛うしの膀胱程ばうくわうほどな大おほきな眼球めだまが飛出とびだして頰ほゝへ振ぶら垂さがる程ほどになつたけれど、それでも聲こゑは立たてなかつた。 そつと起上たちあがつて、私わたしには禮れいも言いはずに、わく〳〵して蹌踉よろけながら、それでも急せかずに出口でぐちの方はうへ行ゆく。 此中このなかで迯出にげだして命いのちを助たすかる價値ねうちの有あるのは自分じぶんばかりと己惚うぬぼれて、他ほかの者ものが火事くわじに氣きが附ついてその[Pg 180]迯路にげみちを塞ふさぐを恐おそれてゐたらしい。

 私わたしは氣色きしよくが惡わるくなつて來きたから、矢張やはり芝居しばゐを出でて了しまつた。 此處こゝで正體しやうたいを顯あらはすのはまだ早はやいとも思おもつたので。 で、外そとへ出でて戰地せんちの方角はうがくを眺ながめてみると、空そらは森しんとして、火影ほかげの黃きに映うつる夜よるの雲くもが長閑のどかに徐しづかに漾たゞよつてゐる。 空そらも町まちも餘あまり閑しづかなのに欺だまされて、「皆みんな夢ゆめで、戰爭せんさうも何なにも有あるんぢやないのかも知しれん」、と私わたしは思おもつた。

 が、曲角まがりかどから子供こどもが飛出とびだして、何なんだか嬉うれしさうに大聲おほごゑで、

「そーら滅茶苦茶めちやくちやな大戰爭だいせんさう! 大變たいへんな討死うちじにだい![Pg 181]電報でんぱう買かつてお吳くんな。 今夜こんやの電報でんぱうだぜ。」

 街燈がいとうの火影ほかげで讀よむで見みると、戰死せんし四千とある。 芝居しばゐの見物けんぶつだつて千以上いじやうは無なかつたらう。 家うちへ歸かへる途々みち〳〵も、四千の死骸しがい〳〵と、始終しじゆう其事そのことばかりを思おもつてゐた。

 かうなると、ガランとした家うちへ入はいるのが氣味きみが惡わるい。 鍵かぎを孔あなに押入おしいれて、何なにも言いはぬ平たひらな戶とを眺ながめたばかりで、もう人ひとも住すまぬ眞暗まツくらな部屋へや々々〴〵が殘のこらず心こゝろに浮うかぶ。 今いま其中そのなかをキョロ〳〵しながら帽子ぼうしを冠かぶつた者ものが一人ひとり通とほる所ところだ。 不知ふち案内あんないの通路かよひぢではないけれど、まだ梯子段はしごだんを登のぼる時ときから、マッ[Pg 182]チを擦すつて、手燭てしよくを見付みつける迄まで、點とぼし續つゞけてゐた。 兄あにの書齋しよさいへはもう行ゆかぬ。 書齋しよさいは在形ありがたの儘まゝ全然そツくり直ひたと締切しめきつて、錠ぢやうが卸おろしてある。 私わたしは食堂しよくだうへ引越ひツこしてゐたが、今夜こんやも其その食堂しよくだうに寢ねるのだ。 食堂しよくだうの方はうが居心ゐごゝろが好いい。 話聲はなしごゑや、笑聲わらひごゑや、食器しよくきの鳴なる賑にぎやかな音おとがまだ太氣中たいきちうに籠こもつて居ゐさうに思おもはれる。 時々とき〴〵乾かわいたペン先さきのさら〳〵と紙上しゞやうを走はしる音おとが判然はつきり聞きこえる事こともある。 寢臺ねだいへ橫よこになると…

(斷篇第十五)

 …愚ぐにも附つかぬ夢ゆめだけれど、怖おそろしい夢ゆめだ。 宛[Pg 183]然さながら葢ふたの骨ほねを剝はがれて、腦なうが覆おほふ物ものもなく露出むきだしになつたやうに、物狂ものぐるほしい血羶ちなまぐさい今日けふ此頃このごろの慘むごたらしさを、吸すはせられる儘まゝに吸すひ込こんで飽あくことを知しらぬ。 縮ちゞんで寢ねれば、身みは二アルシンを塞ふさぐに過すぎぬけれど、心こゝろは世界せかいをも包つゝむ。 所有あらゆる人ひとの目めで觀み、所有あらゆる人ひとの耳みゝで聽きき、戰死者せんししやと共ともに死しに、負傷ふしやうして置去おきざりにされた者ものと共ともに泣なき悲かなしみ、人ひとの流ながす血ちに私わたしも痛いたみを感かんじて惱なやむ。 無ない物ものまでも有あるやうに、遠とほい物ものさへ近ちかく顯然まざ〳〵と見みえて、曝さらした腦なうの苦痛くつうに際限さいげんがない。

 子供こども々々〳〵、小ちいさな子供こども、まだ罪つみを知しらぬ子供こども。

 [Pg 184]その子供等こどもらが町中まちなかで戰爭さんさうごツこをして、逐おひつ逐おはれつしてゐる中うちに、誰だれだか細ほそい稚をさない聲こゑでもう泣なく者ものがある。 私わたしは怖おそろしさも怖おそろしく、厭いやな厭いやな氣持きもちになつて、何なにか胸むねが躍をどるやうに覺おぼえた。 家うちへ歸かへれば、夜よるになつて、夜火事よくわじのやうに炎もえる夢ゆめに、このいたいげな罪つみの無ない子供等こどもらが、小ちひさな人殺ひとごろろしの惡黨あくたうの群むれになつたと見みた。

 何なんだか眞赤まツかな太ふとい火焰くわえんを擧あげて物凄ものすごく燃もえる烟けむりの中うちに、首くびは大人おとなの、加之しかも惡黨あくたうらしく、胴どうは不具かたはの子供こどもの變化へんぐゑらしい物ものが蠢うごめく。 山羊やぎの子こが戯たはむれるやうに、身輕みがろくピョン〳〵跳廻はねまはつてゐる癖くせに、[Pg 185]病人びやうにんのやうな苦くるしさうな息氣いき遣づかひをする。 蟇ひきか蛙かへるのそれに似にた口くちを、パクリと開あいては顫わなゝかせ、躶身はだかみの透徹すきとほるやうな皮越かはごしに赤あかい血ちの流ながれるのが見みえて、その子供等こどもらは遊あそび戯たはむれながら、討うちつ討うたれつする。 小ちひさくて何處どこへでも潜もぐり込こむから、此程これほど無氣味ぶきみな物ものを私わたしは曾かつて見みた事ことがない。

 私わたしが窓まどから覗のぞいてゐるのを、小ちひさい一人ひとりが認みとめるや、莞爾にツこりして、内うちへ入はいりたさうな目色めつきをしながら、

「其處そこへ行いくよ。」

「來きたら取殺とりころすだらう?」

[Pg 186]「其處そこへ行いくよ。」

 忽たちまち諷さツと顏色かほいろを變かへて、白壁しらかべを攀登よぢのぼる所ところは宛然まるで鼠ねずみだ、饑うえた鼠ねずみだ。 落おちてチゝと鳴なく、又またちよこちよこと壁かべを走はしる。 その變化へんくわの烈はげしいこと、遽あはただしいこと、見みる眼めも迷まよふばかりだ。

 戶との下したからなら、潜もぐり込こめる、――と思おもつて私わたしが慄然ぞツとすると、さう思おもふ人ひとの心こゝろを讀よむだやうに、鼠ねずみは身みを細長ほそながくして、尻尾しツぽの先さきをひらめかしながら、表口おもてぐちの戶との下したの暗くらい隙間すきまへ潜もぐり込こむ。 私わたしが夜着よぎを被かぶつて隱かくれてゐると、小ちひさな奴やつが小ちひさな素足すあしの音おとを偸ぬすみ〳〵、暗くらい部屋へや々々〴〵を尋たづね廻まはる音おとがす[Pg 187]る。 そろり〳〵と、躇躊ためらひがちに、私わたしの部屋へやへ忍しのび寄よつて、遂つひに中なかへ這入はいつて來きたが、それぎり久しばらくはガサともゴソとも言いはないから、寢臺ねだいの側そばに何なにが居ゐやうとも思おもへぬ。 忽たちまち誰だれだか小ちひさな手てで夜着よぎの端はしを捲まくる者ものがある。 室内しつないの冷つめたい氣きがヒヤリと面かほに觸ふれ、胸むねに觸ふれる。 私わたしはしかと夜着よぎを抑おさへてゐたが、夜着よぎは止度とめどなく其處そこら中ぢうから剝めくれて、足あしが水みづへでも涵つかつたやうに、急きふに冷つめたくなる。 頓やがて兩足りやうあしとも冷つめたい暗くらい部屋へやの中なかに便たよりなく橫よこたはれば、鼠ねずみはそれを眺ながめてゐる。

 壁かべ一重ひとゑ隔へだてゝ庭にはで犬いぬの啼聲なきごゑがして、ト罷やむと、[Pg 188]鎖くさりのぢやら〳〵といふ音おとがして、犬いぬは小舎こやへ潜もぐり込こむだやうだ。 鼠ねずみは默だまつて私わたしの素足すあしを眺ながめてゐる。 それが側そばに居ゐるのは自おのづから知しれる。 堪たまらなく怖おそろしくて、死神しにがみに抱窘だきすくめられたやうに、身體からだが竦すくみ、石いしの墓はかか何なんぞのやうに、寂ぢツと動うごかなくなるにつけても、それは知しれるが、若もし大聲おほごゑを立たてる事ことが出來できたら、私わたしは此市このまちどころか、世界中せかいぢうを呼覺よびさましたかも知しれん。 只たゞ聲こゑが中途ちうとで立消たちぎえをして出でて來こぬので、大人おとなしく凝然ぢツとしてゐたが、小ちひさい冷つめたい手先てさきがむづ〳〵と身體中からだぢうを這廻はひまはつて、咽喉元のどもとへ逼せまる。

[Pg 189]「堪たまらん!」と片息かたいきになつて、喚わめいて瞬またゝく間まに目めを覺さます。 夜よは深々しん〳〵として靈れいあるが如ごとく、暗くらくても能よく見みえたが、私わたしは又また眠入ねいつたらしかつた…

「何なにも心配しんぱいする事ことはないよ」、と兄あにが寢臺ねだいの端はしに腰こしを卸おろした。 亡者もうじやでも重おもたくて、寢臺ねだいがギシ〳〵といふ。 「何なにも心配しんぱいする事ことはない。 皆みな夢ゆめだ。 咽喉のどを締しめられるやうな氣きがするので、お前まへは實じつは誰だれも居ゐない眞暗まつくらな部屋へやでグッスリ寢込ねこんでるのだ。 ね、私わたしは書齋しよさいで書かいてるのだ。 何なにを書かいてるのか一向こう知しらんもんだから、お前方まへがたは私わたしを狂人きちがひ扱あつかひにして失禮しつれいな眞似まねをしてゐるけれど、もう斯かうなりや打明うちあ[Pg 190]けやう。 私わたしは實じつは赤あかい笑わらひの事ことを書かいてるのだ。 お前まへに見みえるか?」

 何なにやら大おほきな眞紅まツかな血ちだらけの物ものが私わたしの上うへに覆かぶさつて、齒はのない口元くちもとでゲタリと笑わらつてゐる。

「これが赤あかい笑わらひだ。 地球ちきうが狂氣きちがひになると、かういふ笑方わらひかたをするものだ。 お前まへ知しつてるだらう、地球ちきうの氣きの違ちがつた事ことは? もう花はなも歌うたもなくなつて、地球ちきうは圓まるい、滑すべツこい、眞紅まツかな、皮かはを剝むいた頭あたまのやうな物ものになつて了しまつた。 見みえるか?」

「見みえます。 今いま笑わらつてます。」

「地球ちきうの腦髓なうずゐがえらい事ことになつて了しまつたから、御[Pg 191]覽ごらん。 眞紅まツかなところは血ちの粥かゆとでも謂いひさうだ。 滅茶々々めつちや〳〵になつて了しまつた。」

「何なにか喚わめいてる。」

「痛いたいのだ。 もう花はなも歌うたもないからな。 さあ、己おれがお前まへの上うへへ乗のつかるぞ!」

「乗のつかつちや、重おもたい、氣味きみも惡わるい。」

「死しんだ者ものなら、生いきてる者ものの上うへに乗のツかるべき筈はずだ。溫あツたかいだらう?」

「溫あツたかです。」

「好いい心持こゝろもちか?」

「死しにさうだ。」

[Pg 192]「目めを覺さましてワッといへ。目めを覺さましてワッと。 己おれはもう行ゆく…」

(斷篇第十六)

 戰鬪せんとうが始はじまつてから、もう八日目かめになる。 過すぐる週しうの金曜きんえうに始はじまつて、土曜どえう、日曜にちえう、月曜げつえう、火曜くわえう、水曜すゐえう、木曜もくえうと過すぎて、又また金曜きんえうが來きて其それも過すぎたが、まだ戰鬪せんとうは止やまぬ。 兩軍りやうぐんの兵數へいすう十萬まん、それが相對あひたいして一步ぽも退ひかずに、凄すさまじい音おとを立たてゝ、息氣いきをも續つがず破裂彈はれつだんを打うち合あふので、刻々こく〳〵に生人せいにんが死人しにんになつて行ゆく。 段々だん〳〵轟々ごう〳〵と絕たえず空氣くうきを撼ゆする[Pg 193]其その砲聲はうせいに、空そらも動搖どよんで眞黑まツくろな夕立雲ゆうだちぐもを呼よび、雷霆らいていは頭あたまの上うへで磤はためくけれど、敵てきも味方みかたも此處こゝを先途せんどと討うちつ討うたれつしてゐる。 人ひとは三晝夜ちうや眠ねむらんと、病やまひを得えて物ものも覺おぼえぬやうになるといふのに、况まして是これはもう一週間しうかんも眠ねむらずに居ゐるのだから、皆みな狂氣きちがひになつてゐる。 であるから、苦くるしいとも思おもはない、退ひかうともしない、一人ひとり殘のこらず討死うちじにして了しまふ迄までは、奮鬪ふんとうせんとするのだ。 風聞ふうぶんに據よると、某隊ぼうたいでは彈藥だんやくが盡つきて、石いしを投なげ合あひ、拳こぶしで毆うち合あひ、犬いぬのやうに咬かみ合あつたと云いふ。 若もし此この戰鬪せんとうの參加者さんかしやで生還せいくわんする者ものがあつたら、狼おほかみのやうに牙きば[Pg 194]が生はえてゐやうも知れぬが、恐おそらく生還者せいくわんしやは有あるまい、皆みな狂くるつてゐるから、一人ひとり殘のこらず討死うちじにして了しまはう。 皆みな狂くるつてゐる。 頭あたまの中なかが顚倒てんたふして何なにも分わからなくなつて居ゐるから、若もし急きふにグルッと方向むきを變かへさせられたら、敵てきと思おもつて味方みかたに發砲はつぱうしかねまいと思おもはれる。

 奇怪きくわいな噂うはさがある…奇怪きくわいな噂うはさで、怖おそろしくもあるし、只ただ事ことでないと虫むしが知しらせたから、皆みな蒼あをくなつて、ひそ〳〵と咡さゝやく。 あゝ、兄あにに聞きかせたい、皆みな赤あかい笑わらひの噂うはさだ。 聞きけば、幻まぼろしの部隊ぶたいが現あらはれたと云いふ。 いづれも何なにから何迄なにまで生人せいじんと些ちつとも違ちがはぬ[Pg 195]亡者もうじやの集團しふだんだ。 夜よは狂くるつた人逹ひとたちが霎時しばしの夢ゆめを結むすぶ時とき、晝ひるは晴はれた日ひも黃泉よみと曇くもる戰たゝかひの眞最中まツさいちうに、忽然こつぜんと現あらはれて、幻まぼろしの砲はうで發砲はつぱうして、怪あやしの砲聲はうせいに空そらを撼ゆすると、生いきてはゐるが、氣きの狂くるつた人逹ひとたちが、事ことの不意ふいなのに度どを失うしなつて、死物狂しにものぐるひに其その幻まぼろしの敵てきと戰たゝかひ、怖おそれて取逆上とりのぼせて、一瞬しゆんの間まに白髮しらがになり、紛々ふんぷんと死しんで行ゆく。 幻まぼろしの敵てきは忽然こつぜんとして現あらはれて、又また忽然こつぜんとして消きえ失うせる。 と、寂然しんとなつた跡あとを見みれば、散々さん〴〵に形かたちの害そこなはれたまだ生々なま〳〵しい死骸しがいが、狼藉らうぜきと地上ちじやうに橫よこたはつてゐる。 敵てきは果はたして何者なにものだつた[Pg 196]らう? 敵てきの果はたして何者なにものだつたかを、私わたしの兄あには知しつてゐる筈はずだ。

 二度目どめの戰鬪せんとうも終をはつて、四下あたりは寂然ひツそりとなる。 敵てきは遠方ゑんぱうだ。 それだのに、闇夜やみよに突然とつぜんドンと一發ぱつ怯おびえたやうな筒音つゝおとがする。 それツと跳起はねおきて、皆みな暗黑くらやみの中なかへ發砲はつぱうする、――久しばらく、何時間なんじかんといふ間あひだ、寂しんとして音沙汰おとさたのない暗黑くらやみの中なかへ發砲はつぱうする。 暗中あんちうに何なにを認みとめたのか? 怖おそろしくも物狂ものぐるほしい無言むごんの姿すがたを現げんした無氣味ぶきびな者ものは抑そもそも何者なにものだ? 之これを知しつてる者ものは兄あにと私わたしとだけで、まだ他ほかの人ひとは知しらない、只たゞ感かんずるだけは感かんじて居ゐると見みえて、蒼あをくなつて此樣こんな事ことをいふ、「如何どうして斯かう狂人きちがひが多おほいの[Pg 197]でせう? 此樣こんなに澤山たくさん狂人きちがひの有あつた事ことはまだ聞きいた事ことがない。」

「此樣こんなに澤山たくさん狂人きちがひの有あつた事ことを聞きいた事ことがない」といつて、皆みな蒼あをくなる。 今いまも昔むかしも變かはらぬと思おもつて居ゐたいのだ。 遍あまねく人ひとの良智りやうちを無理むりに抑おさへて居ゐる力ちからは銘々めい〳〵の果敢あへない頭あたまの上うへへは及およばぬと思おもつてゐたいのだ。

「昔むかしだつて、何時いつだつて、戰爭せんさうはあつた、しかし曾かつて此樣こんな事ことはない。 戰爭せんさうは生存せいそんの理法りはふだ」、と斯かういつて皆みな澄すまして落着おちついてゐるけれど、其癖そのくせ皆みな蒼あをくなつてゐる、皆みな眼めで醫者いしやを捜さがしてゐる、皆みな狼狽うろた[Pg 198]へた聲こゑで、水みづを、早はやく水みづを、と叫さけんでゐる。

 人ひとは皆みな内うちに動うごく良智りやうちの聲こゑを聞きくまいとして、無意味むいみな事ことに爭あらそひ負まけて其その分別ふんべつの鈍にぶり行ゆくのを忘わすれやうとして、ならば白痴たはけになりたいと思おもふ。 戰地せんちでは刻々こく〳〵に人ひとの死しに行ゆく今日けふ此頃このごろ、私わたしは如何どうしても安閑あんかんとしてゐられぬから、其處そこら中ぢう世間せけんを駈廻かけまはつて、人ひとの話はなしも隨分ずゐぶん聞きいた、なに、戰爭せんさうは遠方ゑんぱうだ、我々われ〳〵には關係くわんけいはないといつて、故意わざとらしく微笑びせうする人ひとの面かほも隨分ずゐぶん見みた。 が、それよりも多おほく出逢であつたのは、虛飾きよしよくを去さつた眞實しんじつの恐怖きようふである。 心細こゝろぼそい苦にがい淚なみだである、「この狂暴きやうばうの殺戮さつりくはいつ止やめるの[Pg 199]だ!」といふ、絕望ぜつばうの物狂ものぐるほしい叫聲さけびごゑである。 人ひとが大おほいなる良智りやうちに力ちから一杯いつぱい膓はらわたを絞しぼられて、最後さいごの祈禱きたう、最後さいごの呪咀じゆそを唱となへ出だす時とき、能よく此この叫聲さけびごゑを發はつする。

 久ひさしいこと、或あるひは數年すうねんになるかも知しれぬが、足踏あしぶみしなかつた去方さるかたで、狂氣きやうきになつて後送こうさうせられた一將校しやうかうに出逢であつた。 同窓どうさうの友ともだのに、私わたしは見違みちがへた位くらゐで、產うみの母はゝさへ分わからなかつたと云いふ。 一年ねんも墳穴つかあなに埋うまつてゐて再ふたゝび此世このよに出でて來きたとて、かうはあるまいと思おもはれる程ほどの變かはり樣やうで、頭あたまも白しろく、全まつたく白しろくなつて了しまつてゐた。 面貌かほだちは餘あまり變かはつてもゐなかつたが、默だまつて聽耳きゝみゝを立たてゝゐる其その面[Pg 200]色かほつきは世離よばなれして、人間にんげんとは緣遠えんどほく怖おそろしげなので、言葉ことばを掛かけるさへ無氣味ぶきびになる。 如何どうして氣きが違ちがつたのだといふと、親戚しんせきの聞込きゝこんだ所ところでは、彼かれの隊たいが豫備隊よびたいとなつて、隣となりの聯隊れんたいが突貫とつくわんした事ことがある。 大勢おほぜいが駈かけながら、ウラー、ウラーと喚わめく。 大聲おほごゑに喚わめくので、殆ほとんど銃聲じうせいも聞きこえなくなつた程ほどだつたが、其中そのうちにふと銃聲じうせいが止やむ、――ウラーが止やむ。 寂然しんと墓はかの如ごとく靜しづかになつたのは、敵てきの陣地ぢんちに走はしり着ついて、彌〻いよ〳〵白兵戰はくへいせんが始はじまつたのだ。 彼かれは此時このとき寂然しんとなつたのに堪たへなかつたのだと云いふ。

 今いまでは側そばで話はなしをしたり、叫さけんだり、騷さわいだりし[Pg 201]てゐると、落着おちついて聽耳きゝみゝを立たてゝ何なにかの聞きこえるのを待まつてゐるが、一寸ちよツとでも閑しづかになると、我われと我頭わがあたまに挘むしりつくやら、壁かべや家具かぐへ駈上かけあがらうとするやら、癲癇てんかんめいた發作ほつさを起おこして藻搔もがく。 親戚しんせきが多おほいので、其等それらが交かはる〴〵病人びやうにんを取卷とりまいて騷さわいでやつてゐるが、それでも夜よるがある、長ながい音おとのせぬ夜よるがあるから、父親ちゝおやが夜よるを引受ひきうける。 これも矢張やツぱり白髮しらが頭あたまの少すこし氣きの變へんな親仁おやぢだが、チクタクの音おとの高たかい時計とけいを幾いくつとなく壁かべに掛連かけつらねて、たがひ違ちがひに間斷しツきりなく時ときを打うたせてゐたが、近頃ちかごろでは絕たえずパチパチといふやうな音おとを出だす輪わを仕掛しかけてゐるさう[Pg 202]な。 まだ二十七だから、全快ぜんくわいすると思おもつて、望のぞみを將來しやうらいに繫かけてゐるから、今いまでは家内かないが寧むしろ陽氣やうきである。 軍服ぐんぷくは着きせないが、瀟洒さつぱりした服裝なりをさせて、見みともなくないやうに仕して置おいてやるから、白髮しらがでこそあれ、面相かほだちはまだ若々わか〳〵しく、擧動きよどうも力ちからの脫ぬけたやうに悠然ゆツたりと品ひんが好よく、物思ものおもひ貌がほに凝ぢツと注意ちういしてゐる形かたちは寧むしろ美うつくしい。

 始終しじうの話はなしを聽きいて、私わたしは側そばへ行いつて、その男をとこの蒼白あをじろい、萎なえ〳〵とした、もう刃やいばを揮翳ふりかざすこともない筈はずの手てに接吻せつぷんしたが、之これには誰たれも目めを側そばだてる者ものもなかつた。 唯たゞ友ともの若わかい妹いもうとが目めに微笑びせうを含ふくむで[Pg 203]私わたしを見みたばかりだつたが、それからは其その娘むすめが、許嫁いひなづけでもあるやうに、私わたしの跡あとを追廻おひまはして、此世このよに掛易かけがへのない男をとこのやうに私わたしを慕したふ。 餘あまり慕したはれるので、私わたしも不覺つい眞暗まツくらなガランとした家うちに、獨居ひとりゐよりも厭いやな思おもひをしてゐる事ことを話はなさうとした程ほどだつたが、人ひとの心こゝろといふものは愛想あいその盡つきる物ものだ。 何時いつだつて絕望ぜつばうしてゐる事ことはない。 娘むすめの計はからひで差向さしむかひになつた時とき、其人そのひとが優やさしく、

「まあ、貴方あなたのお顏色かほいろの惡わるいこと! 眼めの下したに環わが出來できてますよ。お加減かげんでも惡わるいのですか? それともお兄樣あにいさまがお可哀かわいさうでならないの?」

[Pg 204]「兄あにばかりぢやない、人間にんげんが皆みな可哀かわいさうです。 尤もツとも少すこし加減かげんも惡わるいが…」

「私あたし貴方あなたが兄あにの手てに接吻せつぷんなすつた譯わけを知しつてますよ、――皆みんなは氣きが附つかなかつたやうですけど。 あの、何なんでせう、兄あにが狂氣きちがひだから、それでゞせう?」

「さうです。 狂氣きちがひだから、それでゞす。」

 娘むすめは凝ぢツと思案しあんに沈しづむ、――その樣子やうすが兄あにに酷肖そツくりであつた、――只たゞ逈然ずツと若わかいばかりで。

「私あたし」、と娘むすめは言淀いひよどむでサツと赤面せきめんしたが、伏目ふしめにもならないで、「私あたし貴方あなたのお手てに接吻せツぷんしたいわ。 [Pg 205]許ゆるして下くだすつて?」

 私わたしは娘むすめの前まへに膝ひざを突ついて、

「祝福ブレツスして下ください。」

 娘むすめは聊いさゝか顏色がんしよくを變かへて身みを引ひいたが、唇くちびるばかりで囁さゝやくのを聞きくと、

「私あたし信者しんじやぢやないわ。」

「私わたしだつてもそれは然さうだ。」

 娘むすめの手てが一寸ちよツと私わたしの頭あたまに觸ふれた。 それが濟すむと、

「私あたし戰地せんちへ行いつてよ。」

「それも好いいでせう。しかし到底とても耐たへられまい。」

[Pg 206]「それは如何どうだか知しれないけど、だつて貴方あなたも兄あにも然さうだけど、戰地せんちの人ひとだつて打遣うツちやつて置おく譯わけには行いきますまい? 罪つみも何なにもない人逹ひとたちですもの。 貴方あなた、私わたしを忘わすれちや下くださらない?」

「决けツして。貴孃あなたは?」

「私あたしもそんなら、御機嫌ごきげんよう!」

「もう二度どとはお目めに掛かゝれまい。 御機嫌ごきげんよう!」

 死しにも狂氣きやうきにも尤もつとも畏おそるべき處ところがある、――それを私わたしは經過けいくわしたやうな心持こゝろもちがして、ホッとした。 氣きも落着おちついた。 久ひさし振ぶりで昨日きのふは、怖おそろしいとも何なんとも思おもはず、平氣へいきで家うちへ入はいつて、兄あにの書齋しよさいの戶とを[Pg 207]開あけて、其その筐かたみの机つくえに對たいして、久しばらく椅子ゐすに倚よつてゐた。 夜中よなかにドンと何なにかに衝つかれたやうな心持こゝろもちでふと目めを覺さますと、乾かわいたペン先さきが紙上しじやうを走はしる音おとがしたが、私わたしは驚おどろかなかつた。 殆ほとんど微笑びせうせぬばかりの心持こゝろもちになつて、心こゝろの中うちで、

「澤山たんとお書かきなさい。 ペンも乾かわいたのぢやない、――生々なま〳〵しい人間にんげんの血潮ちしほを含ふくんでゐる。 原稿げんかうも白紙はくしのやうに見みえやうが、其方そのはうが寧むしろ好いい。 何なにも書かいてないだけに無氣味ぶきみで、聰明さうめいな人逹ひとたちが種々いろんな事ことを書立かきたてるよりも、戰爭せんさうや理性りせいに付ついて多おほくを語かたる。 お書かきなさい、〳〵、澤山たんとお書かきなさい。」

 [Pg 208]…今朝けさ新聞しんぶんを讀よむで見みると、まだ戰闘せんとうが止やまぬので、私わたしはまた薄氣味惡うすきみわるくなつて來きて、心こゝろが落居おちゐず、宛然さながら腦なうの中なかで何なにかガタリと落おちたやうな心持こゝろもちがした。 その何なにかゞ向むかふから來くる、近ちかくなる、――もうガランと明あかるい家うちの敷居しきゐに立たつてゐる。 あゝ、彼かの人ひとが懷なつかしい、何卒どうぞ私わたしの事ことを忘わすれて吳くれるな。 私わたしは氣きが違ちがひさうだ。 戰死せんし三萬まん、戰死せんし三萬まん…

(斷篇第十七)

 …市内しないも何なんとなく血羶ちなまぐさい。 判然はつきりした事ことは分わからぬけれど、何なんだか怖おそろしい噂うはさがある…

[Pg 209]

(斷篇第十八)

 今朝けさ新聞しんぶんを見みると、澤山たくさんの戰死者せんししやの姓名せいめいが出でてゐる中なかで、一人ひとり知しつた名前なまへがある。 それは私わたしの妹いもうとの許嫁いひなづけの一將校しやうかうで、亡兄ばうけいと一緒しよに召集せうしふされた人ひとだ。 一時間後じかんごに配逹夫はいたつふが投込なげこんで行いつた手紙てがみを見みると、兄あにへ宛あてたもので、表書うはがきの書風しよふうで分わかつたが、その戰死せんしした妹いもうとの許嫁いひなづけから來きたのだ。 死人しにんが死人しにんへ手紙てがみを寄越よこしたのだ。 けれども死人しにんが生いきてる人ひとに文通ぶんつうしたよりまだ勝ましだ。 これは私わたしが現げんに逢あつた去さる婦人ふじんの身みの上うへだが、その息子むすこが砲彈はうだんに粉韲ふんさいされ[Pg 210]て無殘むざんな最後さいごを遂とげたのを新聞しんぶんで知しつてから、全まる一ケ月げつの間あひだ每日まいにち其その息子むすこから手紙てがみが來くる。 優しほらしい息子むすこで、手紙てがみにはいつも優やさしい事ことを書かいて母はゝを慰なぐさめて、何なにか幸福かうふくを得うる望のぞみあり氣げな若わかい愛度氣あどけない事ことばかり言いつて寄越よこす。 此世このよの人ひとではないけれど、これが惡魔あくまの几帳面きちやうめんといふものか、每日まいにち缺かがさず此世このよの事ことを書かいて寄越よこすから、母親はゝおやは遂つひに伜せがれは戰死せんししたのでないと思おもひ出だした。 が、ふと音信おとづれが絕たえてから、一日にち二日ふつか三日みつかと過すぎ、それからも死默しもくに入いつて、何時迄いつまで待まつても音沙汰おとさたがないので、母親はゝおやは兩手りやうてで古風こふうな大形おほがたのピストルを取上とりあげて、[Pg 211]胸むねへ丸たまを打込うちこんだと云いふ。 助たすかつたやうにもいふが、私わたしは能よくは知しらぬ。 判然はつきりした事ことを聞きかずに了しまつた。

 私わたしは久しばらく封筒ふうとうを眺ながめてゐたが、考かんがへて見みると、此この封筒ふうとうも曾かつて故人こじんの手てに觸ふれた事ことがあるのだ。 何處どこでか之これを買かはうとして、錢ぜにを持もたせて從卒じゆうそつを、何處どこかの店みせへ遣やつたのだ。 故人こじんは此この手紙てがみの封ふうをしてから、或あるひは自分じぶんでポストへ入いれたかも知しれぬ。 で、郵便いうびんといふ複雜ふくざつな機關きくわんが運轉うんてんし出だして、手紙てがみは森もりや野のや市街しがいを餘所よそに見みて、只管ひたすら目的地もくてきちを指さして走はしる。 最後さいごの日ひの朝あさ、手紙てがみの主ぬしが長靴ながぐつを穿はいた[Pg 212]時とき、手紙てがみは走はしつてゐた。 主ぬしが戰死せんしした時ときにも、手紙てがみは走はしつてゐた。 主ぬしが穴あなへ投込なげこまれて死骸しがいが土つちの下したになつた時ときにも、消印けしいんを帶おびた灰色はいゝろの封筒ふうとうの中なかに身みを忍しのばせて、靈れいある幻まぼろしの如ごとく、手紙てがみは森もりや野のや市街しがいを餘所よそに見みつゝ走はしつて、かうして今いま私わたしの手中しゆちうに在あるのだ。

 手紙てがみの文句もんくは下しもの通とほり。 鉛筆えんぴつで幾片いくひらかの紙かみの切端きれはしに書かいたもので、結末けつまつも附ついてゐない。 何なにか邪魔じやまが入はいつたものと見みえる。

⦅…今いまとなつて始はじめて戰爭せんさうの大おほいに樂たのしむべき所以ゆえんを知しつた。 利口りこうな、狡猾かうくわつな、裏表うらおもてのある、肉食にくしよく動物どうぶつ[Pg 213]中ちうの肉食にくしよく動物どうぶつより、遙はるかに味あぢのある人間にんげんといふやつを殺ころす樂たのしみは、古風こふうな原始的げんしてきな樂たのしみで、鎭長とこしなへに人ひとの生命せいめいを奪うばふといふ事ことは、行星かうせいなんぞを抛なげてテニスを行やるよりも、愉快ゆくわいなものだ。 君きみは哀あはれだ。 僕ぼくは君きみが僕等ぼくらと倶ともに在あることを得えずして、無味むみな平凡へいぼんな日ひを送おくつて、無聊むりように苦くるしむ身みの上うへになつたのを悲かなしむ。 君きみが高尙かいしやうな精神せいしんから、安やすきを偸ぬすんで居ゐられずして、永ながく求もとめた所ところのものは、死地しちに入はいつて後のち、始はじめて獲えられる。 血ちに醉ゑふといふこと、比喩ひゆは稍やゝ古ふるめかしいが、眞實しんじつは反かへつて這裏しやりに在ある。 僕等ぼくらは膝ひざまで血ちに蘸ひり、此この赤葡萄酒あかぶだうしゆに醉ゑつて[Pg 214]チロ〳〵目めになつてゐる。 赤葡萄酒あかぶだうしゆとは名譽めいよある僕ぼくの部下ぶかの兵へいが戯たはむれに命めいじた名なだ。 人ひとの生血いきちを飮のむといふ風習ふうしふは、人ひとの思おもふ程ほど、馬鹿氣ばかげたものではない。 古人こじんも承知しようちして行やつた事ことだ…⦆

⦅…鵶からすが啼ないてゐる。 君きみに聞きこえるか、鵶からすが啼ないてゐるぞ。 何處どこから此樣こんなに飛とんで來きたのだらう! 空そらも黑くろむ程ほどだ。 天下てんかに可畏物こはいものなしの僕等ぼくらと列ならんで、鵶からすは宿とまつてゐる。 何處どこへ行いつても隨ついて來くる。 いつも僕等ぼくらの頭あたまの上うへに居ゐるから、黑くろレースの傘かさを翳さしてゐるやうで、又また葉はの黑くろい木きの動うごく蔭かげに居ゐるやうだ。 一羽は僕ぼくの面かほの側そばへ來きて突つゝつかうとした。 彼[Pg 215]奴きやつ僕ぼくを死人しにんと間違まちがへたのだらう。 鴉からすが啼ないてゐる、少すこし氣きになる。 何處どこから此樣こんなに飛とんで來きたのだらう?⦆

⦅…昨夜ゆうべ僕等ぼくらは睡耋ねぼけた敵てきを鏖殺みなごろしにした。 鴨かもを仕留しとめる時ときのやうに、窃そつと、足音あしおとを偸ぬすんで、巧うまく、用心ようじんして這はつて行いつたから、死骸しがいに一つ躓つまづかず、鳥とり一羽は起たたせなかつた。 幽靈いうれいのやうに、忍しのんで行ゆく、それを又また夜よるが隱かくして吳くれる。 哨兵せうへいは僕ぼくが片付かたづけてやつた、突倒つきたふして置おいて、聲こゑを立たてぬやうに咽喉のどを締しめたのだ。 少すこしでも聲こゑを立たてられたら、百年目ねんめだからなあ、君きみ。 しかし聲こゑを立たてなかつた。 [Pg 216]殺ころされると思おもつてゐる暇ひまが無なかつたやうだ。

 篝かゞりがぷす〳〵燻いぶつてゐる。 敵てきは其側そのそばに眠ねてゐた。 我家わがやで寢臺ねだいに臥ねたやうに、安心あんしんして眠ねてゐた。 其處そこを僕等ぼくらは一時間餘じかんよも屠ほふつたのだ。 斬きらぬ中うちに眼めを覺さましたのは幾人いくたりもなかつたが其樣そんな奴等やつらは悲鳴ひめいを揚あげて、無論むろん赦ゆるして吳くれといつた。 喰付くひつきもした。 一人ひとりの奴やつなんぞ、僕ぼくが頭あたまを引摑ひツつかむと、摑つかみやうが惡わるかつたので、左ひだりの手ての指ゆびを咬かみ切きりをつた。 指ゆびは咬かみ切られたが、其代そのかはり見事みごとに首くびを引捻ひンねぢつてやつた。 如何どうだ、君きみ、これなら帳消ちやうけしになるまいか?いや、皆みな能よく眠込ねこんで居ゐやがつたよ! 骨ほねを[Pg 217]斬きれば、ポキンといふな、肉にくを斬きれば、ザクッといふのだ。 それから丸裸まるはだかにして置おいて、お四季施しきせの分配ぶんぱいをやつたが、君きみ、串戯じやうだんいふと思おもつて怒おこつちや不好いけないぜ。 君きみは小こ六かしいから、それぢや野武士臭のぶしくさいといふかも知しれんが、仕方しかたがないさ。 僕等ぼくらだつて殆ほとんど裸はだかだもの。 全然すツかり着切きゝつて了しまつたのだ。 僕ぼくは疾とうから何なんだか女をんなの上衣うはぎのやうな物ものを着きてゐるのだ。 これぢや常勝軍じやうしようぐんの將校しやうかうぢやなくて、何なにかのやうだ。

 それはさうと、君きみは結婚けつこんした樣やうだつたな?それぢや、此樣こんな手紙てがみを見みちや、惡わるかつたらう。 しか[Pg 218]し…なあ、君きみ、女をんなに限かぎるぞ。 えい、糞くそ、僕ぼくだつて靑年せいねんだ、戀こひに渇かつしてゐるンだ!おツと――君きみにも約束やくそくした女をんなが有つたつけな?君きみは何處どこかの令孃れいぢやうの寫眞しやしんを僕ぼくに示みせて、これが僕ぼくの婚約こんやくした女をんなだと曰いつた事ことがあるぜ。 寫眞しやしんには何なんだか悲かなしい、非常ひじやうに悲かなしい、哀あはれな事ことが書かいてあつたつけ。 而さうして君きみは泣ないたぜ。 何なにを泣ないたのだつけな? 何なんでも非常ひじやうに悲かなしい、非常ひじやうに哀あはれな、小ちひさな花はなのやうな事ことが書かいてあつたつけが、何なんだつけな? 君きみは泣ないたぜ、――泣ないて〳〵、泣なき立たてたぜ… 見みツともない、將校しやうかうの癖くせに泣なくなんて!⦆

[Pg 219]⦅…鴉からすが啼ないてゐる。 君きみ、聞きこえるだらう?鴉からすが啼ないてるぞ。 何なんだつて彼樣あんなに啼なくのだらう?…⦆

 此後このあとは鉛筆えんぴつの跡あとが消きえてゐて、署名しよめいも讀よめかねた。

******

 不思議ふしぎだ。 此人このひとの戰死せんししたのが知しれても、私わたしは些ちつとも哀あはれと思おもはなかつた。 面かほを憶出おもひだすと、判然はツきり浮うかぶ。 優やさしい、しほらしい、女をんなのやうな面相かほだちで、頰ほゝは桃色もゝいろ、眼中がんちうは淸すゞしく、朝あさの如ごとく潔いさぎよくて、髯ひげは柔やはらかなむく毛げで、これなら女をんなの面かほの飾かざりにもなりさうに思おもはれた。 書物しよもつや、花はなや、音樂おんがくを好このみ、總すべ[Pg 220]て粗暴そぼうな事ことが嫌きらひで、詩しなど作つくつてゐた。 批評家ひゝやうかの兄あにが中々なか〳〵巧たくみだといつてた位くらゐだ。 が、此この人ひとについて私わたしの知しつてゐる所ところを憶おもひ出だしたのでは、どうもこの鴉啼からすなきや、夜襲やしうの血ちの海うみや、死しと調和てうわせぬ。

 …鴉からすが啼ないてゐる…

 ふツと、瞬またゝく間ま、調子てうし外はづれの何なんとも言いひやうもない嬉うれしい心持こゝろもちになつてみると、今迄いまゝでの事ことは皆みな僞うそで、戰爭せんさうも何ないも有ありはせん。 戰死者せんししやもなければ、死骸しがいもない。 思想しさうの根底こんていが搖ゆるいで便たよりなくなるなぞと、其樣そんな怖おそろしい事ことも有あるのではない。 私わたしは仰向あふむけに臥ねて、子供こどものやうに怖おそろしい夢ゆめを見みてゐる[Pg 221]のだ。 死しや恐怖きようふに荒あらされて寂然しんとなつた無氣味ぶきびな部屋々々へや〳〵も、人ひとの書かいた物ものとも思おもへぬ手紙てがみを手てに持もつた私わたしも、皆みな夢ゆめだ。 兄あには生いきてゐて、家内かないの者ものは皆みな茶ちやを飮のむでゐる。 茶器ちやきの物ものに觸ふれて鳴なる音おとも聞きこえる。

 …鴉からすが啼ないてゐる…

 いや、矢張やはり事實じじつだ。 不幸ふかうな世よの中なか――それが事實じじつでは有あるまいか? 鴉からすが啼ないてゐる。 理性りせいを失うしなつた狂人きやうじんや、無事ぶじに苦くるしむ文士ぶんしなどが、安直あんちよくの奇きを求もとめて思おもひ付ついた空言そらごとではない。 鴉からすが啼ないてゐる。 兄あには何處どこに居ゐるか。 氣品きひんの高たかい、溫順おんじゆんな、誰だれ[Pg 222]にも迷惑めいわくを掛かけまいと心掛こゝろがけてゐた人ひとだ。 兄あには何處どこに居ゐる? さあ、忌々いま〳〵しい解死人げしにんめら、返事へんじをしろ! 呪のろつても足たらぬ惡黨あくとうめら、牛馬ぎうばの屍肉しにくに集たかつた鴉からすめら、情なさけない愚鈍ぐどんな畜生ちくしやうめら、――さあ、手前逹てまへたちは畜生ちくしやうだ、――世界せかいの人ひとの面前めんぜんで手前逹てまへたちに聞きいてるのだぞ! 何咎なにとがあつて兄あにを殺ころした?手前逹てまへたちに面かほがあるなら、頰打ほゝうち喰くはしてやる所ところだが、手前逹てまへたちには面かほはない。 手前逹てまへたちのそれは肉食動物にくしよくどうぶつの鼻面はなづらといふものだ。 人間にんげんの風ふうをしてゐても、手套てぶくろの下したから爪つめが見みえるでないか? 帽子ばうしの下したから畜生ちくしやうのひしやげた惱天なうてんが見みえるでないか? 幾いくら利[Pg 223]口りこうさうな口くちを利きいても、手前逹てまへたちの言いふ事ことには狂氣きちがひじみた所ところがあるわ。 繍錠さびぢやうのぢやら〳〵いふ音おとがするわ。 己おれは己おれの悲かなしみ、憂うれひ、侮辱ぶじよくせられた思想しさうの力ちからの有丈ありたけを盡つくして、手前逹てまへたちを呪のろふぞ、この情なさけない愚鈍ぐどんな畜生ちくしやうめら!

(最後の斷片)

「…生存上せいぞんじやう新生面しんせいめんを開ひらくのは諸君しよくんの任務にんむであります、」と辯士べんしは叫さけむだ。 此人このひとは「戰爭せんさうを戢やめよ」と書かいた文字もじが皺しわでよれ〳〵になつた旗はたを揮ふりながら、手てで釣合つりあひを取とつて、辛からうじて小ちひさな圓柱ゑんちうの上うへ[Pg 224]に立たつて居ゐるのだ。

「諸君しよくんは靑年せいねんである、諸君しよくんは未來みらいに生活せいくわつすべき人ひとである。 宜よろしく此かくの如ごとき狂暴きやうばう慘酷ざんこくなる事ことと關係くわんけいを絕たつて、以もつて自己じこの生命せいめいを保たもつべきである。 未來みらいの國民こくみんの種たねを保全ほぜんすべきである、我々われ〳〵は今日こんにちの慘狀さんじやうを見みるに忍しのびぬ。 之これを目擊もくげきしては眼中がんちうの血走ちばしるを禁きんぜぬ。 實じつに天てんが頭上づじやうに落懸おちかゝり大地たいちが足下そつかに裂さけるやうな感かんがある。 諸君しよくん…」

 此時このとき群衆ぐんじゆが尋常ただならぬ動搖どよみを作つくつたので、辯士べんしの聲こゑは其それに消壓けおされて一ひとしきり聞きこえなくなつたが、實まことに靈たましひでも籠こもつて居ゐさうな、物凄ものすごい動搖どよみであつた。

[Pg 225]「假かりに我輩わがはいは氣きが狂くるつてゐるとするも、我輩わがはいの云いふ所ところは眞理しんりである。 我輩わがはいには父ちゝがあり兄弟きやうだいがあるが、皆みな戰塲せんぢやうで牛馬ぎうばの屍しかばねの如ごとく腐敗ふはいしつゝある。 宜よろしく篝かゞりを焚たいて、穴あなを掘ほつて、武器ぶきを鑄潰いつぶして埋うめて了しまふが好よい、軍人ぐんじんを捕とらへてその燦さんたる狂氣服きちがひふくを剝はいで、寸裂すんれつして了しまふが好よい。 我々われ〳〵は最早もはや忍しのぶことが出來できぬ… 同類どうるゐが死しにつゝあるのである…」

 ト云いふところを、誰だれだか、何なんでも脊せの高たかい男をとこだつたが、撲飛はりとばしたので、辯士べんしがころ〳〵と轉ころげ落おちる、旗はたが颯さつとまた飜ひるがへつて、又また倒たふれる。 跡あとは直す[Pg 226]ぐ紛々ごた〳〵となつて了しまつたので、辯士べんしを撲飛はりとばした奴やつの面かほをツイ認みとめる暇ひまもなかつた。 俄にはかに其處そこら中ぢうが皆みな動うごき出だして、揉合もみあひ、壓へし合あひ、押おし反かへし、喚わめき叫さけぶ。 石塊いしころ棍棒こんばうが空くうを飛とび、誰だれを打うつ拳こぶしだか頭上づじやうに閃ひらめく。 群衆ぐんじゆは靈れいある浪なみの吼ほゆる如ごとく哮たけり立たつて、私わたしを宙ちうに釣上つりあげたまゝ、數步すうほの外ほかへ運はこんで行ゆき、いやと云いふ程ほど垣根かきねへ打付ぶツつけて、又また後戾あともどりして今度こんどはあらぬ方かたへ逸それ、到頭たうとう高たかく薪まきを積上つみあげたのに推付おしつけて了しまつたので、積つみ上あげた薪まきが傾かしいで、あはや頭上づじやうへ崩くづれ落おちさうになる。 何なにかパチ〳〵と燥はしやいだ音おとが頻しきりにして、材木ざいもくにパラ〳〵と中あたる[Pg 227]ものがある。 と、靜しづまる――かとすると、又また更さらにワッと云いふ。 鰐口わにぐち開あいて叫さけぶやうな、太ふとい大おほきな聲こゑで、人間にんげん離ばなれしてゐて物凄ものすごい。 またパチ〳〵と燥はしやいだ音おとがする。 誰たれだか側そばで倒たふれたから、見みると眼めの在ある處ところに眞紅まつかな穴あなが二ツ洞開ほげて、血ちが滾々ごぼ〴〵と流ながれて居をる。 此時このとき重おもたい棍棒こんばうがブンと空くうを切きつて來きて、其端そのさきが顏かほに中あたると、私わたしは倒ころげたから、踏躪ふみにじる足あしの間あひだを無闇むやみに這脫はひぬけて空地くうちへ出でた。 それから何處どこかの垣根かきねを越こえて、一つ殘のこらず爪つめを剝はがして、薪まきを幾側いくかはも積上つみあげたのへ攀よぢ登のぼつた。 中なかで一側かは體からだの重おもみに崩くづれたのが有あつたので、私わたくしはグヮラ〳〵[Pg 228]と飛散とびちる薪まきと一緒いつしよに消飛けしとんで、四角しかくな穴あなのやうな中なかへ落おちたが、辛からうじて其處そこを這出はひでると、轟々ぐわう〴〵パチ〳〵ワッと云いふ音おとが後うしろから追蒐おひかけて來くる。 何處どこでか半鐘なんしやうが鳴なる。 五階ごかい建たての家いへでも崩くづれたやうな、怕おそろしい音おとも聞きこえる。 黄昏たそがれが凝付こりついたやうに、中々なか〳〵夜よるの景色けしきにならず、彼方かなたの銃聲ぢうせい、叫喚けうくわんの聲こゑが赤あかく色いろづいて夕闇ゆふやみを跡あとへ〳〵押戾おしもどしたやうな趣おもむきがある。 最後さいごの垣かきを飛降とびおりると、其處そこはめくら壁かべに左右さいうを劃しきられた、廊下らうかのやうな、曲まがり拗くねつた狭せまい橫町よこちやうで私わたくしは其處そこを駈出かけだした。 久しばらく駈かけて行いつて見みたが、つんぼ橫町よこちやうで、行止ゆきどまりは垣根かきね、其その向むかうには[Pg 229]又また薪まきや材木ざいもくの積つむだのが黑々くろ〴〵と見みえる。 で、又また踏ふめば崩くづれて踏應ふみごたへのない嵩高かさだかな積薪つみまきを攀登よぢのぼつては何なんだか寂然しんとして生木なまきの匂にほひのする井戶ゐどのやうな處ところへ落おち、落おちては又また這上はひあがつてゐたが、どうも後うしろを振向ふりむいて見みる氣きになれない。 また朦朧ぼんやりと薄赤うすあかく影かげが射さして、黑くろずんだ材木ざいもくが巨人きよじんの亡骸むくろのやうに見みえるから、振ふり向むいて見みんでも、大抵たいてい樣子やうすは知しれてゐる。 もう面かほの傷きずの出血しゆつけつも止とまつたが、面かほが無感覚ばかになつて、我わが面かほのやうには思おもはれず、宛然さながら石膏せつかう細工ざいくの面めんを被かぶつてゐるやうな心持こゝろもちがする。 やがて眞闇まツくらな穴あなへ落おちた時とき、氣きが遠とほくなつて遂つひに正體しやうたい[Pg 230]を失うしなつたやうにも思おもふが、眞しんに正體しやうたいを失うしなつたのか、失うしなつたやうな氣きがしたのか、どつちだつたか分わからぬ、私わたくしの覺おぼえて居ゐるのは、唯たゞ駈かけて行いつた事ことばかりだ。

 それから久しばらく街燈がいとうも點ついてゐぬ知しらぬ町々まち〳〵を駈廻かけまはつたが、何方どちら向むいても、眞黑まツくらな、死しんだやうな家いへばかりで、その寂然しんとした迷宮めいきうの中うちを脫出ぬけだすことが出來できなかつた。 方角はうがくを付つけるのには、立止たちどまつて四下あたりを視廻みまはすが肝腎かんじんだが、それが出來できない。 遠方ゑんぱうに聞きこえる轟々ぐわう〳〵といふ物音ものおとや、ワッと云いふ人聲ひとごゑが動やゝともすると段々だん〴〵追付おひつきさうになる。 時ときには[Pg 231]ふッと角かどを曲まがらうとして、正面まともに其その聲こゑに打付ぶツつかる事ことがある。 聲こゑは赤黑あかくろい球たまになつて舞揚まひあがる烟けむりの中うちから赤々あか〳〵と響ひゞいて來くる。 それッと引返ひきかへして、また後あとになる迄まで走はしる。 去さる曲角まがりかどで一條ひとすぢ燈火あかりの射さしてゐた所ところがあつたが、側そばへ行ゆくと、ふッと消きえて了しまつたのは、何處どこかの商店しやうてんで急きふに戶とを閉切しめきつたのであつた。 廣ひろい隙間すきまから帳塲ちやうばの臺だいの片端かたはしと何なんだか桶おけのやうなものが見みえて、忽たちまち寂然しんと潜ひそむだやうに暗くらくなつた。 其その商店しやうてんから遠とほくは離はなれぬ處ところで向むかうから駈かけて來くる人ひとに出逢であつた。 暗闇くらやみでもう二足ふたあしで危あぶなく衝當つきあたらうとして、互たがひに立止たちどまつた。 誰たれだか知しらぬ[Pg 232]が、眞黑まツくろな…、身構みがまへをした人ひとの姿すがたが見みえる。

「君きみは彼方あツちから來きたのか?」

「さうだ。」

「何處どこへ行いくんだ?」

「家うちへ歸かへるのだ。」

「むゝ、家うちへか?」

 相手あひては少すこし默だまつてゐたが、突然いきなり私わたしに飛蒐とびかゝつて、推倒おしたふさうとする。 咽喉元のどもとを探さぐり當あてやうと、搔かき廻まはす冷つめたい指先ゆびさきが衣服きものに絡からまつてやツさもツさしてゐる暇ひまに、私わたくしはその手てに喰くひ付ついて、振捥ふりもぎつて置おいて駈出かけだした。 相手あひては人ひとも通とほらぬ町筋まちすぢを靴音くつおと高たか[Pg 233]くしばらく追蒐おツかけて來きたが、其中そのうちに後おくれて了しまつた――大方おほかた喰付くひついてやつた處ところが痛いたむだのであらう。

 如何どうしてか、フト吾わが住すむ町まちへ出でた。 矢張やツぱり街燈がいとうもない町まちで、家々いへ〳〵は死しんだやうに、火影ほかげ一ひとつ射さす處ところもなかつたから、これが吾わが町まちとは氣きが附つかずに駈通かけとほつて了しまふ所ところであつたが、偶ふと目めを擧あげて見みると、我家わがやの前まへだ。 が、私わたくしは久しばらく躊躇ちうちよしてゐた。 多年たねん住慣すみなれた家いへではあるけれど、吐つく息いきが荒あらければ悲かなしげに物ものに響ひゞく、此この死しんだやうな變かはつた町中まちなかで見みると、我家わがやのやうには思おもはれない。 躊躇ちうちよしてゐる中うちに、や、顛ころんだ時ときに鍵かぎを落おとしはせぬかと思おもふ[Pg 234]と、愕然ぎよツとして氣きも坐そゞろになり、遮しや二無む二捜さがして見みれば、なに、鍵かぎは外隱袋そとがくしにあつた。 で、錠ぢやうをカチリと云いはせると、其その反響こだまが高たかく變へんに響ひゞいて町中まちぢうの死しんだやうな家いへの戶とが一時じに颯さツと開ひらいたやうな心持こゝろもちがした。

 …初はじめは床下ゆかしたに隱かくれて見みたが、それも佗わびしく、且かつ眼めの前まへに何なにかちらついて見みえるやうで無氣味ぶきびだつたから、窃そツと内うちへ忍しのび込こむだ。 暗黑くらやみを手探てさぐりで方々はう〴〵の戶締とじまりをし、さて勘考かんかうの末すゑ道具だうぐを押付おしつけて置おかうとしたり、それを動うごかす每たびに怕おそろしい音おとがガランとした家中いへぢうに響ひゞき渡わたる。 これに又また膽きもを冷ひやして、[Pg 235]「えい、」と思切おもひきつて、「このまゝで死しなば死しね。 如何どうして死しんだつて、死しぬのは一ひとつだ。」

 洗面臺せんめんだいにまだ生溫なまあたゝかい湯ゆがあつたから、手探てさぐりで面かほを洗あらつて、布片きれで拭ふいたら、面かほの皮かはが釣つれて傷きずがヒリ〳〵傷いたむ。 鏡かゞみで見みやうとして、マツチを點つけて、そのちら〳〵と弱よわい火影ほかげに透とほして見みると、暗黑くらやみに何なんだか醜みにくい無氣味ぶきびな物ものが居ゐて、私わたくしの顏かほをぢろりと見みたので、狼狽あわててマッチを棄すてゝ了しまつた。 が、どうやら鼻はながめツちやになつて居をるらしい。

「もう鼻はななんぞ如何どうなつたつて構かまはん。 滿足まんぞくだつて仕方しかたがない。」

 [Pg 236]かう思おもふと、愉快ゆくわいになつて來きた。 芝居しばゐで盜賊ぬすびとの役やくでも勤つとめて居ゐるやうに、奇怪きくわいな身振みぶりや顏色かほいろをしながら、ブフエーへ行いつて、殘物ざんぶつを探さがし出だした。 探さがすに何なにも身振みぶりをする必要ひつえうはない。 それはさうとも思おもひながら、其その癖くせ面白おもしろくて身振みぶりが止やめられなかつた。 ひどく飢かつえてゐる積つもりで、矢張やツぱり奇怪きくわいな顏色かほつきをしながら、物ものを喰くつて居ゐた。

 眞暗まツくらで寂然しんとしてゐるのが無氣味ぶきびだつたから、庭にはの覗窓のぞきを開あけて、聽耳きゝみゝを引立ひツたてると、戶外そとはもう馬車ばしや一ひとつ通とほらぬから、初はじめは矢張やはり寂然しんとしてゐるやうに思おもはれて、もう銃聲じゆうせいも止やむだらしい、――[Pg 237]と思おもふ側そばから、幽かすかに遠とほく人聲ひとごゑがする。 叫聲さけびごゑも、笑聲わらひごゑも、何なにかグヮラ〳〵と崩くづれる音おとも、物ものに紛まぎれずして、やがてそれが判然はつきりと手てに取とるやうに聞きこえて來くる。 空そらを瞻みると、赤黑あかぐろい物ものがサッと飛とんで行ゆく。 向むかひの納屋なやも庭先にはさきの敷石しきいしも、犬小舎いぬごやも、矢張やはりぼッと薄赤うすあかく染そまつて見みえる。

「ネプツーン!」

と窃そツと窓まどから犬いぬを呼よんで見みた。

 犬小舎いぬごやでは何なにも動うごく氣色けはひがなく、側そばの鎖くさりの切きれたのが赤黑あかぐろく煌々きら〳〵と見みえるばかり。 が、遠方えんぱうの叫聲さけびごゑや、何なにやらの崩くづれ落おちる音おとが、次第しだいに高たかくなつ[Pg 238]て來きたから、私わたしは覗窓のぞきを閉しめて了しまつた。

「段々だん〳〵押寄おしよせて來くる!」

 隱かくれ塲所ばしよを探さがす氣きで、ストーヴの戸とを開あけたり、塗込ぬりごめ煖爐だんろを探さぐつたり、戸棚とだなを開あけたりしてみたが、そんな物ものでは間まに合あはぬ。 部屋々々へや〳〵をも歩あるき廻まはつて見みたが、書齋しよさいだけは覗のぞく氣きになれなかつた。 屹度きツと兄あにが肱掛椅子ひぢかけいすに腰こしを掛かけて、書物しよもつに埋うまつたテーブルに對むかつて居ゐると思おもふと、餘あンまり好よい心持こゝろもちがしない。

 と、次第しだいに歩あるいてゐるのは私わたくし一人ひとりでないやうに思おもはれて來くる。 まだ幾人いくたりか近ちかくの暗黑やみを默だまつて歩ある[Pg 239]いてゐる者ものがあつて、殆ほとんど私わたしと擦すれ〳〵になる事こともあるやうだ。 一度ど其中そのうちの誰だれやらの息いきが領元えりもとに觸ふれて慄然ぞツと總毛立そうげだつた事こともある。

「誰だれだ?」と私わたしは小聲こゞゑでいつて見みたが、返事へんじがない。

 又また歩あるき出だすと、不気味ぶきびな奴やつが默だまつて跡あとに踉ついて來くる。 加減かげんが惡わるいので、それでこんな氣きがするのだ、さう云いへば熱ねつも出でて來きたやうだ――と思おもふけれども、恐おそろしさを如何どうすることも出來できん。 寒氣さむけでもするやうに身體からだが慄ふるへて、頭あたまに觸さはつて見みると、火ひのやうに熱あつい。

[Pg 240]「チヨッ、書齋しよさいへ行いかう。 何なんと云いつても他人たにんよりか好いい。」

 兄あには果はたして肱掛椅子ひぢかけいすに倚よつて、書物しよもつに埋うまつたテーブルに對むかつて居ゐたが、今いまは彼時あのときのやうに消きえもせぬ。 帷カーテンを卸おろした隙すきから外そとの明あかりが薄赤うすあかく射さしてゐるけれど、物ものを照てらす程ほどでもないから、兄あにの姿すがたはぼんやり見みえる。 私わたくしは兄あにとは懸かけ離はなれて、ソフアに腰こしを卸おろして成行なりゆきを見みて居ゐた。 書齋しよさいは靜しづかで、のべつに轟ぐわうといふ音おと、何なにかのグッラ〳〵と崩落くづれおちる音おと、其處此處そここゝの叫聲さけびごゑが幽かすかに聞きこえてゐたのが、次第しだいに近ちかく押寄おしよせて來くる。 赤黑あかぐろい光ひかりは益々ます〳〵強つよくな[Pg 241]り、肱掛椅子ひぢかけいすに凭よつた兄あにの、眞黑まツくろな、鑄鐵いてつで作つくつたやうな半面よこがほが、その細ほそい赤あかい線せんの中うちに見みえるやうになつた時とき、

「兄にいさん!」

 と呼よんでみた。

 が、默だまつて居ゐる。 石碑せきひのやうに凝然ぢツと眞黑まつくろに居竦ゐすくまつてゐる。 隣室りんしつの床板ゆかいたがピシリと爆はぜて、急きふに妙めうに寂しんとなる。 澤山たくさんな死骸しがいの中なかにでもゐるやうだ。 音おとと云いふ音おとは皆みな消きえて、赤黑あかぐろい光ひかりまでしんめりとした死しの影かげを宿やどして、凝こツたやうに動うごかなくなり、其色そのいろも稍やゝ薄うすれる。 この寂さびしさは兄あにからと思おもつて、[Pg 242]其通そのとほりを云いふと、

「いや、己おれの所爲せゐぢやない。窓まどを覗のぞいて御覽ごらん。」

帷カーテンを引除ひきのけて――私わたしはたぢ〳〵となつた。

「おゝ、この故爲せゐか!」

「家内かないを呼よんで來きて呉くれ。 彼あれはまだ見みたことがないから」、と兄あにがいふ。

 嫂あによめは食堂しよくだうで何なにか裁縫さいほうをしてゐたが、私わたしが行ゆくと、針はりを縫物ぬひものに差さして、言いはれる儘まゝに起上たちあがり、私わたしの跡あとに隨ついて來くる。 窓々まど〳〵の帷カーテンを皆みんな引除ひきのけたら、薄赤うすあかい光ひかりが、廣ひろい入口いりぐちを射いて、思おもひの儘まゝに室内しつないへ流ながれ込こむだが、何故なぜだか内うちは明あかるくはならないで、矢張やはり[Pg 243]暗くらかつた、唯たゞ窓まどだけ四角しかくに赤あかく大おほきく燦然ぼツと明あかるく見みえた。

 皆みなで窓際まどぎはへ行いつて仰あふいで見みると、家いへの壁かべや軒蛇腹のきじやばらから、直すぐ火ひのやうに眞紅まツかな、平坦たひらな空そらになつて、雲くもも日ひも星ほしも麗つけずに、其儘そのまゝ地平線ちへいせんの彼方かなたに没ぼつしたやうに見みえる。 俯ふして見みれば、矢張やはり平坦たひらな赤黑あかぐろい野のが死骸しがいで埋うづまつて居ゐる。 死骸しがいは皆みな裸體はだかで、足あしを此方こちらへ向むけて居をるから、此方こちらからは唯たゞ蹠あしのうらと三角かくの顎あごの下したが見みえるばかりだ。 寂然しんとしてゐる――皆みな死骸しがいと見みえて、際限はてしもない野のに置去おきざりにされた負傷者ふしやうしやらしい者ものは一人ひとりも見みえなかつた。

[Pg 244]「段々だん〳〵殖ふえて來くる」、と兄あにが云いふ。

 兄あにも窓際まどぎはに立たつて居ゐたが、母はゝも妹いもうとも家内中かないぢう殘のこらず此處こゝに居ゐる。 誰だれも面かほは能よく見みえなかつたが、唯たゞ聲こゑでそれと知しれた。

「そんな氣きがするンだわ」、と妹いもうとが云いふ。

「いや、殖ふえて來くるのだ。 まあ、見みて居ゐて御覧ごらん。」

 成程なるほど、死骸しがいは殖ふえたやうだ。 如何どうして殖ふえるのかと、凝然ぢツと注目ちうもくして居ゐると、とある死骸しがいの隣となりの、今迄いままで何なにも無なかつた處ところに、フト死骸しがいが現あらはれた。 どうやら、皆みな地ちから湧わくらしい。 空あいた處ところがズン〳〵塞ふさがつて行いつて、大地だいちが忽たちまち微白ほのじろくなる。 微白ほのじろく[Pg 245]なるのは、蹠あしのうらを此方こちらへ向むけて、列ならんで臥ねてゐる死骸しがいが皆みな薄紅うすあかいからで、それにつれて室内しつないもその死骸しがいの色いろに薄紅うすあかく明あかるくなる。

「さあ、もう塲所ばしよがない」、と兄あにが云いふ。

「もう此處こゝにも一人ひとり居ゐるよ」、と母はゝがいふ。

 皆みな振向ふりむいて見みると、成程なるほど背後うしろにも一人ひとり仰反のけぞつて倒たふれてゐる。 と、忽たちまちその側そばへ一人ひとり現あらはれ、二人ふたり現あらはれる。 跡あとから〳〵湧わいて出でて、薄紅うすあかい死骸しがいが行儀ぎやうぎよく並ならび、忽たちまち部屋へや々々〳〵に一杯いつぱいになる。

 保母ほぼが、

「坊ぼツちやん逹たちのお部屋へやにも出でて來きましたよ。 私わたくし見み[Pg 246]て參まゐりました。」

 妹いもうとが、

「逃にげて行ゆきませう。」

 兄あにが、

「出道でみちがない。 御覽ごらん、もう此通このとほりだ。」

 成程なるほど、死骸しがいは其處そこら中ぢうに素足すあしを投出なげだし、腕うでを聯つらねて、ギッシリ詰つままつてゐる。 それが見みる〳〵蠢うごめき出だして、恟ぎよツとする間まに、皆みな行儀ぎようぎよく列ならむだまゝ、むく〳〵と起上おきあがる。 新あたらしい死骸しがいが地ちから湧わいて出でて、舊もとから在あるのを推上おしあげたのだ。

「かうして居ゐると、首くびを締しめられる。 窓まどから逃にげ[Pg 247]ませう。」

 と私わたしが云いふと、兄あにが、

「いや、窓まどからはもう逃にげられん! 駄目だめだ! それ、あれを御覽ごらん!」

 …窓外さうぐわいには、赤黑あかぐろい光ひかりの凝こつた中なかに赤あかい笑わらひが見みえる。


血笑記  終


明治四十一年八月五日印刷  血笑記奥付

明治四十一年八月八日發行   正價金八拾五銭

        著者     長谷川二葉亭

              東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地

  不 許   發行者    西本波太

              東京市小石川區久堅町百八番地

  複 製   印刷人    山田英二

              東京市小石川區久堅町百八番地

        印刷所    博文館印刷所

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 發行所   東京市麹町區飯田町  易風社

       六丁目二十四番地    振替口座 一二〇三四番


Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)

誤植と思われる箇所は岩波書店発行二葉亭四迷全集第四巻(昭和三十九年 第一刷)を参照し以下のように訂正した。

原文 生若まなわかい (p.25)

訂正 生若なまわかい

原文 見みたばかりて (p.59) 

訂正 見みたばかりで

原文 狂人きちちがひ (p.64) 

訂正 狂人きちがひ

原文 血潮ししほ (p.71)

訂正 血潮ちしほ

原文 見みれぼ (p.72) 

訂正 見みれば

原文 便たよりない聲こゑて (p.85)

訂正 便たよりない聲こゑで

原文 二本指ほんゆびて (p.96)

訂正 二本指ほんゆびで

原文 聞きこる! (p.108)

訂正 聞きこえる!

原文 貴方あなたを此樣こんにすれば (p.121)

訂正 貴方あなたを此樣こんなにすれば

原文 折合をりあふ事ことが出來きん (p.125)

訂正 折合をりあふ事ことが出來できん

原文 一所ひところ (p.125)

訂正 一所ひとところ

原文 線せんか (p.138)

訂正 線せんが

原文 紙かみに歿のこつた (p.148)

訂正 紙かみに殘のこつた

原文 遂おうて (p.149)

訂正 逐おうて

原文 薄無味惡うすきみわるかつたが (p.162)

訂正 薄氣味惡うすきみわるかつたが

原文 ちらりとしたばかりて有あつたのだ (p.163)

訂正 ちらりとしたばかりで有あつたのだ

原文 銳するどい目色めつきて (p.171)

訂正 銳するどい目色めつきで

原文 ピシャり (p.172)

訂正 ピシャリ

原文 迯にげけろ (p.175)

訂正 迯にげろ

原文 慓ふるひ出だす (p.175)

訂正 慄ふるひ出だす

原文 冷つたたい (p.187)

訂正 冷つめたい

原文 向むかふから來きる (p.208)

訂正 向むかふから來くる

原文 失うしつたやうにも (p.230)

訂正 失うしなつたやうにも

原文 唯たゞ蹶あしのうらと (p.243)

訂正 唯たゞ蹠あしのうらと

原文 蹶あしのうら (p.245)

訂正 蹠あしのうら

原文 切きれれ (p.237)

訂正 切きれ

●文字・フォーマットに関する補足

113頁「弟は高笑をして、」「妹も合槌を打つて、」、118頁「弟おとうとはふと立止たちどまつて、」の行は一字字下げした。

233頁の草書体の「志」は「し」に置換えた。「熱」の字は原文では「灬」の上が「執」の字。






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1.B.  "Project Gutenberg" is a registered trademark.  It may only be
used on or associated in any way with an electronic work by people who
agree to be bound by the terms of this agreement.  There are a few
things that you can do with most Project Gutenberg-tm electronic works
even without complying with the full terms of this agreement.  See
paragraph 1.C below.  There are a lot of things you can do with Project
Gutenberg-tm electronic works if you follow the terms of this agreement
and help preserve free future access to Project Gutenberg-tm electronic
works.  See paragraph 1.E below.

1.C.  The Project Gutenberg Literary Archive Foundation ("the Foundation"
or PGLAF), owns a compilation copyright in the collection of Project
Gutenberg-tm electronic works.  Nearly all the individual works in the
collection are in the public domain in the United States.  If an
individual work is in the public domain in the United States and you are
located in the United States, we do not claim a right to prevent you from
copying, distributing, performing, displaying or creating derivative
works based on the work as long as all references to Project Gutenberg
are removed.  Of course, we hope that you will support the Project
Gutenberg-tm mission of promoting free access to electronic works by
freely sharing Project Gutenberg-tm works in compliance with the terms of
this agreement for keeping the Project Gutenberg-tm name associated with
the work.  You can easily comply with the terms of this agreement by
keeping this work in the same format with its attached full Project
Gutenberg-tm License when you share it without charge with others.

1.D.  The copyright laws of the place where you are located also govern
what you can do with this work.  Copyright laws in most countries are in
a constant state of change.  If you are outside the United States, check
the laws of your country in addition to the terms of this agreement
before downloading, copying, displaying, performing, distributing or
creating derivative works based on this work or any other Project
Gutenberg-tm work.  The Foundation makes no representations concerning
the copyright status of any work in any country outside the United
States.

1.E.  Unless you have removed all references to Project Gutenberg:

1.E.1.  The following sentence, with active links to, or other immediate
access to, the full Project Gutenberg-tm License must appear prominently
whenever any copy of a Project Gutenberg-tm work (any work on which the
phrase "Project Gutenberg" appears, or with which the phrase "Project
Gutenberg" is associated) is accessed, displayed, performed, viewed,
copied or distributed:

This eBook is for the use of anyone anywhere at no cost and with
almost no restrictions whatsoever.  You may copy it, give it away or
re-use it under the terms of the Project Gutenberg License included
with this eBook or online at www.gutenberg.org

1.E.2.  If an individual Project Gutenberg-tm electronic work is derived
from the public domain (does not contain a notice indicating that it is
posted with permission of the copyright holder), the work can be copied
and distributed to anyone in the United States without paying any fees
or charges.  If you are redistributing or providing access to a work
with the phrase "Project Gutenberg" associated with or appearing on the
work, you must comply either with the requirements of paragraphs 1.E.1
through 1.E.7 or obtain permission for the use of the work and the
Project Gutenberg-tm trademark as set forth in paragraphs 1.E.8 or
1.E.9.

1.E.3.  If an individual Project Gutenberg-tm electronic work is posted
with the permission of the copyright holder, your use and distribution
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terms imposed by the copyright holder.  Additional terms will be linked
to the Project Gutenberg-tm License for all works posted with the
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1.E.4.  Do not unlink or detach or remove the full Project Gutenberg-tm
License terms from this work, or any files containing a part of this
work or any other work associated with Project Gutenberg-tm.

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electronic work, or any part of this electronic work, without
prominently displaying the sentence set forth in paragraph 1.E.1 with
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Gutenberg-tm License.

1.E.6.  You may convert to and distribute this work in any binary,
compressed, marked up, nonproprietary or proprietary form, including any
word processing or hypertext form.  However, if you provide access to or
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request, of the work in its original "Plain Vanilla ASCII" or other
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License as specified in paragraph 1.E.1.

1.E.7.  Do not charge a fee for access to, viewing, displaying,
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unless you comply with paragraph 1.E.8 or 1.E.9.

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- You pay a royalty fee of 20% of the gross profits you derive from
     the use of Project Gutenberg-tm works calculated using the method
     you already use to calculate your applicable taxes.  The fee is
     owed to the owner of the Project Gutenberg-tm trademark, but he
     has agreed to donate royalties under this paragraph to the
     Project Gutenberg Literary Archive Foundation.  Royalty payments
     must be paid within 60 days following each date on which you
     prepare (or are legally required to prepare) your periodic tax
     returns.  Royalty payments should be clearly marked as such and
     sent to the Project Gutenberg Literary Archive Foundation at the
     address specified in Section 4, "Information about donations to
     the Project Gutenberg Literary Archive Foundation."

- You provide a full refund of any money paid by a user who notifies
     you in writing (or by e-mail) within 30 days of receipt that s/he
     does not agree to the terms of the full Project Gutenberg-tm
     License.  You must require such a user to return or
     destroy all copies of the works possessed in a physical medium
     and discontinue all use of and all access to other copies of
     Project Gutenberg-tm works.

- You provide, in accordance with paragraph 1.F.3, a full refund of any
     money paid for a work or a replacement copy, if a defect in the
     electronic work is discovered and reported to you within 90 days
     of receipt of the work.

- You comply with all other terms of this agreement for free
     distribution of Project Gutenberg-tm works.

1.E.9.  If you wish to charge a fee or distribute a Project Gutenberg-tm
electronic work or group of works on different terms than are set
forth in this agreement, you must obtain permission in writing from
both the Project Gutenberg Literary Archive Foundation and Michael
Hart, the owner of the Project Gutenberg-tm trademark.  Contact the
Foundation as set forth in Section 3 below.

1.F.

1.F.1.  Project Gutenberg volunteers and employees expend considerable
effort to identify, do copyright research on, transcribe and proofread
public domain works in creating the Project Gutenberg-tm
collection.  Despite these efforts, Project Gutenberg-tm electronic
works, and the medium on which they may be stored, may contain
"Defects," such as, but not limited to, incomplete, inaccurate or
corrupt data, transcription errors, a copyright or other intellectual
property infringement, a defective or damaged disk or other medium, a
computer virus, or computer codes that damage or cannot be read by
your equipment.

1.F.2.  LIMITED WARRANTY, DISCLAIMER OF DAMAGES - Except for the "Right
of Replacement or Refund" described in paragraph 1.F.3, the Project
Gutenberg Literary Archive Foundation, the owner of the Project
Gutenberg-tm trademark, and any other party distributing a Project
Gutenberg-tm electronic work under this agreement, disclaim all
liability to you for damages, costs and expenses, including legal
fees.  YOU AGREE THAT YOU HAVE NO REMEDIES FOR NEGLIGENCE, STRICT
LIABILITY, BREACH OF WARRANTY OR BREACH OF CONTRACT EXCEPT THOSE
PROVIDED IN PARAGRAPH 1.F.3.  YOU AGREE THAT THE FOUNDATION, THE
TRADEMARK OWNER, AND ANY DISTRIBUTOR UNDER THIS AGREEMENT WILL NOT BE
LIABLE TO YOU FOR ACTUAL, DIRECT, INDIRECT, CONSEQUENTIAL, PUNITIVE OR
INCIDENTAL DAMAGES EVEN IF YOU GIVE NOTICE OF THE POSSIBILITY OF SUCH
DAMAGE.

1.F.3.  LIMITED RIGHT OF REPLACEMENT OR REFUND - If you discover a
defect in this electronic work within 90 days of receiving it, you can
receive a refund of the money (if any) you paid for it by sending a
written explanation to the person you received the work from.  If you
received the work on a physical medium, you must return the medium with
your written explanation.  The person or entity that provided you with
the defective work may elect to provide a replacement copy in lieu of a
refund.  If you received the work electronically, the person or entity
providing it to you may choose to give you a second opportunity to
receive the work electronically in lieu of a refund.  If the second copy
is also defective, you may demand a refund in writing without further
opportunities to fix the problem.

1.F.4.  Except for the limited right of replacement or refund set forth
in paragraph 1.F.3, this work is provided to you 'AS-IS' WITH NO OTHER
WARRANTIES OF ANY KIND, EXPRESS OR IMPLIED, INCLUDING BUT NOT LIMITED TO
WARRANTIES OF MERCHANTIBILITY OR FITNESS FOR ANY PURPOSE.

1.F.5.  Some states do not allow disclaimers of certain implied
warranties or the exclusion or limitation of certain types of damages.
If any disclaimer or limitation set forth in this agreement violates the
law of the state applicable to this agreement, the agreement shall be
interpreted to make the maximum disclaimer or limitation permitted by
the applicable state law.  The invalidity or unenforceability of any
provision of this agreement shall not void the remaining provisions.

1.F.6.  INDEMNITY - You agree to indemnify and hold the Foundation, the
trademark owner, any agent or employee of the Foundation, anyone
providing copies of Project Gutenberg-tm electronic works in accordance
with this agreement, and any volunteers associated with the production,
promotion and distribution of Project Gutenberg-tm electronic works,
harmless from all liability, costs and expenses, including legal fees,
that arise directly or indirectly from any of the following which you do
or cause to occur: (a) distribution of this or any Project Gutenberg-tm
work, (b) alteration, modification, or additions or deletions to any
Project Gutenberg-tm work, and (c) any Defect you cause.


Section  2.  Information about the Mission of Project Gutenberg-tm

Project Gutenberg-tm is synonymous with the free distribution of
electronic works in formats readable by the widest variety of computers
including obsolete, old, middle-aged and new computers.  It exists
because of the efforts of hundreds of volunteers and donations from
people in all walks of life.

Volunteers and financial support to provide volunteers with the
assistance they need are critical to reaching Project Gutenberg-tm's
goals and ensuring that the Project Gutenberg-tm collection will
remain freely available for generations to come.  In 2001, the Project
Gutenberg Literary Archive Foundation was created to provide a secure
and permanent future for Project Gutenberg-tm and future generations.
To learn more about the Project Gutenberg Literary Archive Foundation
and how your efforts and donations can help, see Sections 3 and 4
and the Foundation web page at https://www.pglaf.org.


Section 3.  Information about the Project Gutenberg Literary Archive
Foundation

The Project Gutenberg Literary Archive Foundation is a non profit
501(c)(3) educational corporation organized under the laws of the
state of Mississippi and granted tax exempt status by the Internal
Revenue Service.  The Foundation's EIN or federal tax identification
number is 64-6221541.  Its 501(c)(3) letter is posted at
https://pglaf.org/fundraising.  Contributions to the Project Gutenberg
Literary Archive Foundation are tax deductible to the full extent
permitted by U.S. federal laws and your state's laws.

The Foundation's principal office is located at 4557 Melan Dr. S.
Fairbanks, AK, 99712., but its volunteers and employees are scattered
throughout numerous locations.  Its business office is located at
809 North 1500 West, Salt Lake City, UT 84116, (801) 596-1887, email
business@pglaf.org.  Email contact links and up to date contact
information can be found at the Foundation's web site and official
page at https://pglaf.org

For additional contact information:
     Dr. Gregory B. Newby
     Chief Executive and Director
     gbnewby@pglaf.org


Section 4.  Information about Donations to the Project Gutenberg
Literary Archive Foundation

Project Gutenberg-tm depends upon and cannot survive without wide
spread public support and donations to carry out its mission of
increasing the number of public domain and licensed works that can be
freely distributed in machine readable form accessible by the widest
array of equipment including outdated equipment.  Many small donations
($1 to $5,000) are particularly important to maintaining tax exempt
status with the IRS.

The Foundation is committed to complying with the laws regulating
charities and charitable donations in all 50 states of the United
States.  Compliance requirements are not uniform and it takes a
considerable effort, much paperwork and many fees to meet and keep up
with these requirements.  We do not solicit donations in locations
where we have not received written confirmation of compliance.  To
SEND DONATIONS or determine the status of compliance for any
particular state visit https://pglaf.org

While we cannot and do not solicit contributions from states where we
have not met the solicitation requirements, we know of no prohibition
against accepting unsolicited donations from donors in such states who
approach us with offers to donate.

International donations are gratefully accepted, but we cannot make
any statements concerning tax treatment of donations received from
outside the United States.  U.S. laws alone swamp our small staff.

Please check the Project Gutenberg Web pages for current donation
methods and addresses.  Donations are accepted in a number of other
ways including including checks, online payments and credit card
donations.  To donate, please visit: https://pglaf.org/donate


Section 5.  General Information About Project Gutenberg-tm electronic
works.

Professor Michael S. Hart was the originator of the Project Gutenberg-tm
concept of a library of electronic works that could be freely shared
with anyone.  For thirty years, he produced and distributed Project
Gutenberg-tm eBooks with only a loose network of volunteer support.


Project Gutenberg-tm eBooks are often created from several printed
editions, all of which are confirmed as Public Domain in the U.S.
unless a copyright notice is included.  Thus, we do not necessarily
keep eBooks in compliance with any particular paper edition.


Most people start at our Web site which has the main PG search facility:

     https://www.gutenberg.org

This Web site includes information about Project Gutenberg-tm,
including how to make donations to the Project Gutenberg Literary
Archive Foundation, how to help produce our new eBooks, and how to
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